正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その二十

 岩波文庫154ページ「しかあればすなはち汝亦如是のゆゑに諸仏なり、吾亦如是のゆゑに諸仏なり。まことにわれにあらず、なんぢにあらず。」
 そういうことであるから、あなたが坐禅し大宇宙の真理と一体となって行動しているのであるから仏と言われる人たちと同じである、自分もまた坐禅して大宇宙の真理と一体となって行動しているのであるから仏と言われる人たちと同じである。そして、そのような状態においては(仏)、自分とか他人とかの区分はない。(ただ仏として存在し行動しているのである)
 「自分は!自分は!」という自己主張の強い世の中ですなあ。言ったもん勝ちという状況もあるみたいだ。
 でも大事なことは、大宇宙の真理と一体となって行動すること。そしてそれは「普通のことを普通にすること」。坐禅したからといって超人になる訳じゃない。普通の人になるだけのこと。普通=大宇宙の真理、なのだから当たり前だ。
 他人や社会の評価は関係ない。基準は大宇宙の真理以外に無い。坐禅して行動していること、普通に行動していること、それが仏であり、そこに威儀が備わっているのだ。
 自己主張に囚われ自己を見失っている人たちがたくさんいると感じる。