正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その二十一

 岩波文庫154ページ「この不染汚に、如吾是吾(にょごぜご)、諸仏諸護念(しょぶつしょごねん)、これ行仏威儀なり。」

 坐禅して大宇宙の真理と一体となって行動している(不染汚)ところに、仮に「吾(自分)」と呼べるものがあるとして、それが吾というものであり、仏と言われる方々が護り念ずることであり、そこに行動する仏としての威儀があるのである。

 如吾是吾は、自分というものは「こうだ、こういうものだ」と観念的に捉えられるものではないけれども、現実には吾、自分というものはあるということだと思っている。観念ではなく現実に行動することが仏の目指すものであり、そこに威儀が備わる。

 オリンピックをやるとかやらないとか。日本という国にとってコロナの中でオリンピックをやるのは何故なのか、具体的にどうするのか、選手だけではなく全国民についてどうするのか、私には全然わからない。

 観念論はもういい。具体的な行動計画を示してほしい。ワクチンもどうなるのかさっぱりわからないし、外に出るな、酒飲むな、とかいつまで言ってるのかねえ。そんな言葉だけじゃもう無理なんじゃない?と思えてならない。

 坐禅します。