正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その二十三

 岩波文庫ページ「吾亦(ごやく)のゆゑに師勝(ししょう)なり、汝亦(にょやく)のゆゑに資強(しきょう)なり。師勝資強、これ行仏の明行足(みょうそくぎょう)なり。しるべし、是仏之所護念(ぜぶつししょごねん)と、吾亦なり、汝亦なり」
 「自分もまた」ということであるから師として勝れており、「お前もまた」」ということであるから優れた資質を持っているのである。この「師勝資強」ということが仏としての行動が明らかに満たされているということである。知らなければいけない、これが仏と言われる方々の護り念ずるところであり、それは自分・他人という区分はない。
 坐禅して大宇宙の真理と一体となって行動するところに威儀が備わる。
 つべこべ言っても行動が駄目なら、価値はない。
 薬局チェーンのオーナーのコロナワクチン接種に配慮しろだの、40歳台の市長がワクチン接種しちゃったり、副大臣が遅刻したり、何を言おうが、行動が駄目。これじゃあ話にならない。
 理屈はいいから、ちゃんと行動してくださいな。
 副大臣の遅刻に対して野党の人が「万死に値する」とか言ってたけど、大袈裟過ぎてギャグみたいだ。そんなこと言うなら、国会議員なんてみんな死ななきゃ駄目なんじゃないなーんて馬鹿な私は思ってしまいました。ごめんなさい。
 坐禅しましょう。坐禅するところに自他の区分はない。あるのは大宇宙の真理のみです。