正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵  行仏威儀その二十四

 岩波文庫155ページ「曹谿古仏の道得(どうて)、たとひわれにあらずとも、なんぢにあらざらんや。」

 六祖大鑑慧能禅師がおっしゃったことは、たとえ「自分は仏ではない」と考えたとしても仏から見れば「お前は仏である」ということである。

 坐禅した瞬間に仏であるのだけれど中々そういう実感は湧かない。しかし、仏、大宇宙から見れば仏以外の何ものでもない。

 仏であるかどうかは坐禅しているかどうかで決まるのであって、悟りを開いたとか訳のわからないものではない。

 そして自分では仏であるという意識はなくともその行動には威儀が備わる。

 今は「自分は、自分は」と前に前に出てくる時代だと感じる。実力もなく、上っ面の言葉を弄ぶだけの輩が、言葉は悪いがのさばっている。世の中を見渡して、その行動に威儀が備わっている人間がいるだろうか。ほんとに薄っぺらな時代だと思う。

 コロナのワクチンを打ちたがって仕方なくてルールを逸脱する人に威儀などある訳がない。それに他人から「偉い」と思われたい、言われたい人も多いよねえ。「たとひわれにあらずとも、なんぢにあらざらんや」ですよ。自分の外側、社会の評判だとか、地位だとか、収入だとかに価値基準を置くと人間おかしくなってしまう。

 人間の価値は、坐禅して大宇宙の真理と一体となって行動するところにしかない。他人がどう言おうと、そこにしかない。

 「うっせえ、うっせえ」という歌が流行った(流行っている?)そうだが、上辺だけの世の中の言動をみていれば、そう言いたくなるのが正常、まともだ。まだ正常なところが残っているといえるのだと思う。

 坐禅しましょう。