正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その二十五

 岩波文庫155ページ「行仏之所護念(ぎょうぶつのしょごねん)、行仏之所通達(ぎょうぶつのしょつうたつ)、それかくのごとし。かるがゆゑにしりぬ、修証は性相本末等にあらず。」

 坐禅して大宇宙の真理と一体となって行動する人=仏が護り念ずるところ、辿り着くところは、これまでに書いたようなことである。であるから知ることができる、修行や経験は、本来持っている性質とか、表面に現れているものだとか、根本だとか、末端だとかそんなことは関係ない。

 坐禅がすべてであって、坐禅することは誰にでも可能だ。条件などない。坐禅しようとするかしないかだけのことである。

 人間の社会は、地位だとか、資産だとか何か基準を作ろう作ろうとする。社会を運営するためには必要だとは思うが、その基準が人間の価値とイコールだと思ってしまうお馬鹿さんがいる。

 基準は大宇宙の真理以外にはなく、人間の脳みそでひねくりだすものじゃない。

 しかし世界の様子を見ていると、結局は経済問題という気がする。結局は「金がありゃ無理が通る」みたいなことはいっぱい起こっているんじゃないか。科学技術は発展しても、人間の質は発展してないんじゃないか?

 大宇宙の真理が基準とならない限り、人類の将来は暗いなあと思う。「自分は優れて

いる」「我が国は優れている」なんて言ってるようじゃお先真っ暗。お馬鹿さんの思い込みほど怖いものはない。

 坐禅してくれませんかねえ。