正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その二十七

 岩波文庫155ページ「こゝに為法捨身(いほうしゃしん)あり、為身捨法(いしんしゃほう)あり。不惜身命(ふしゃくしんみょう)あり、但惜身命(たんじゃくしんみょう)あり。法のために法をすつるのみにあらず、心のために法をすつる威儀あり。捨は無量なること、忘るべからず」

 ここのところに、法のために身を捨てるということがあり、身のために法を捨てるということがある。命を惜しまないということがあり、この命を惜しむということがある。法のために法を捨てるということだけではなく、心のために法を捨てるところにも威儀がある。この「捨てる」ということには無限大の力があることを忘れてはならない。

 「法のために身を捨てる」というのは、大宇宙の真理を行う場合には命を惜しまないということ。

 「身のために法を捨てる」というのは、心身をもって行動しているときには、抽象的な「法」というような概念はなくなってしまうということ。

 「不惜身命、命を惜しまない」というのは、大宇宙の真理に従って行動しているときには命など忘れてしまうということ。

 「但惜身命、命を惜しむ」というのは、大宇宙の真理を実現するのは、この心身なのだから大事にするということ。

 「法のために法を捨てる」というのは、大宇宙の真理を実現しようとするときに、概念的な法、あるいは法の一部は捨てることになることがあるということ。

 「心のために法を捨てる」というのは、大宇宙の真理を実現しようとするために行動するときには、法というような概念は消え去ってしまうということ。

 「捨は無量なること」というのは、無我夢中で一生懸命に行動しているときには、一切の雑念、余計なものが抜け落ちてしまい、無限大の力を発揮するということ。

 大宇宙の真理を実現するための行動に関して、法と身の関係、惜しむということとの関係といっても、上に書いたとおり様々な場合がある。それは当たり前のことで、現実の世の中、そんな単純なものじゃない。

 オリンピックだっておそらく、複雑怪奇、魑魅魍魎が跋扈する世界なのだろう。しか

しこれをどうするのか解決するのは、やはり政治なのだろう。いっそのこと「こんなに複雑なんですよ」と言っちゃったらどうなのかな?そんなことしたら、The endなのかな?

 政治家やメディアは、正義や理想を単純に言い立てる。だから私は嫌いだ。どちらも立場上そうせざるを得ないのはわかるけど、嫌いだ。政治家もメディアも権力者だ。政治家は与党も野党も権力者だ。自分の正しさを声高に言い立て、反対する者には意地悪をする。怖い怖い。(メディアの政権批判などの一部は、私には意地悪にしか見えない)また、選挙の時など単純なことを大声で言い続けることのほうが有利なようだ。困ったもんだと思う。

 真理はある。大宇宙の真理だ。それは坐禅しない限りわからない。そのレベルには当分行きつきそうもないなあ。大丈夫かな?