正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その二十八

 岩波文庫155ページ「仏量を拈来(ねんらい)して大道を測量(しきりょう)し度量(たくりょう)すべからず。仏量は一隅なり、たとへば「花開(けかい)」のごとし。」

 仏の教えを尺度として取り上げて現実の世界を頭の中で評価することはできない。仏の教えとされているものであってもそれは全体の一部であって、例えばこの世界の一部で花が咲いているというようなものである。

 「これが仏の教えだ!」とか「本当の釈尊の教えはこれだ!」あるいは「こうすれば幸せになれる」「安心が得られる」とか言う人がいるけど、世の中そんな単純なものじゃない。頭の中で考えた「教え」とか「思想」だけで、現実が処理できる訳がない。

 何だかわかったような、もっともらしいことを言う人がいるけど、理屈は理屈に過ぎない。その時その場で何か言うだけなら何とでも言える。医師会の会長が威張って何か言ってても自分でパーティやっちゃだめでしょう。

 1つの考えが万能なわけがない。単純な当たり前のことだと思うけど、世の中「これがいいんだ!」「すばらしい!」とか一時的にせよなりがちですよね。

 世界のもめごとだって「自分たちが正しい」と言い張っているもの同士だから解決する訳がない。結局、決着は経済力、軍事力でしかつけられない。これが今の人類のレベルだ。

 大宇宙の真理は不変だ。しかし、それは言葉では言い表せない。坐禅して体得して行動するしかない。ただ「言葉では言い表せない」といって放っておけないので道元禅師は必死に本来不可能なことに取り組まれ正法眼蔵をお書きになった。

 正法眼蔵坐禅しないと読めない。坐禅しましょう。