正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その二十九

 岩波文庫155ページ「心量を挙来(こらい)して威儀を摸索(ぼさく)すべからず、擬議すべからず。心量は一面なり、たとへば「世界」のごとし。」

 心で考える(頭の中で考える)ことでは仏の行動に備わる威儀を探すことはできないし、考えることもできない。心でわかることは一面に過ぎない、例えば「世界」といっても見えているのは大宇宙のごく一部であることのようなものである。

 今は、知識を持っているとか、理屈をうまくしゃべれるとかが評価されているように見える。しかし、私にはどれもこれも、全体のごく一部を自分の都合のいいように切り取っているように見えて仕方がない。そもそも全体像なんて全然見えていないのじゃなかろうか。大宇宙は無限の広さを持っている。人間の脳味噌ではわからない。坐禅して体得するしかない。

 ごく狭量で一途に思い込んでいる人の言動は、変な迫力があって怖い。これで世の中が動いているところもあると思う。コロナにしたってオリンピックにしたって、本質的な全体像は全然わからないというのが私の実感(勉強不足なんでしょうね)。

 坐禅すれば大宇宙の真理を体で感じることが出来る。大宇宙という無限大の真理。それを体得した心身で行動することが「生きる」ということだと信じている。