正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その三十

 岩波文庫155ページ「一茎草量(いっきんそうりょう)、あきらかに仏祖心量なり。これ行仏の蹤跡(しょうせき)を認ぜる一片なり。」

 (頭の中、心の中であれこれ考えるのではなく)一本の草の茎というものが、明かに仏祖の心そのものである。この一本の茎というものが仏としての行動がどういうものであるかを理解する一つの材料である。

 頭の中で考えれば何とでも考えられる。今、情報と称するものが溢れかえっている。しかし、私にはだからなんなんだ、というものばかりに見える。言葉にはうんざりしているというのが正直なところだ。客観的な数値だけでよいとすら思う。ただ、その数値も「おかしな考えに囚われた人」によって歪められてしまっているかもしれないけど。

 行動こそが仏の威儀を示すものだ。たとえそれが一本の茎のような小さなものであっても。

 コロナ対策だって行動でしか解決しない。つべこべ言ってないで行動しろよ、行動できないなら正直に言いなさい、と言いたくなる。

 平和を祈念することは大事だ。しかし、平和を実現するのは具体的な行動でしかない。イスラエルパレスチナは一応停戦したけど、今回の紛争を通じて双方とも相手の手の内を分析して「次は同じ手は通用しないぞ」と準備しているだろう。アメリカは対中国については本気だろう。日本、韓国両方に台湾の安定を言わせた。これから具体的に色々手を打つだろう。対中国の包囲網を拡大させていこうとするだろう。日本はどうする。「仲良くしましょう」と言っても、「じゃ、どうするんだ?」というところがなきゃ話にならない。

 人類は大宇宙の真理には程遠い。大宇宙の真理によってしか解決することはない。本来、人間は憎しみあったり、殺しあったりすることはできないのだ。けれど、思想・観念に囚われて戦っている。

 坐禅が世界に広まるしか解決策はない。