正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その三十二

 岩波文庫156ページ「しばらく、行仏威儀に一究あり。即仏即自と恁麼来(いんもらい)せるに、吾亦汝亦(ごやくにゅやく)の威儀(いいぎ)、それ唯我能(ゆいがのう)にかゝはれりといふとも、すなはち十方仏然(じっぽうぶつねん)の脱落(とつらく)、これ同条のみにあらず。」

 行仏威儀を考える一つの方法がある。自分自身がすなわち仏であるというように考える一方で、自分も他人もまた仏であるという行仏威儀があり、そのことはただひたすら自分が行動するということに関係はしているけれども、この世界のあらゆるところに存在する仏がことさら何かを主張する訳でもなく存在しているということもあり、行仏威儀というのは、単純にこうだと言えるものではないのである。

 ここのところは、私は主観と客観の融合というか一体化というか、そういうことではないかと思っている。

 いくら自分が自分がと思っていても、周りの世界は厳然として存在している。

 自己主張に囚われて、現実が見えなくなってしまっている。客観的具体的事実が分からなくなってしまっている、というのはよく見かけることだと思う。

 皇室の婚約者の人にしても、政治家にしても、メディアにしても「自己主張」で「本当のこと」が見えてないんじゃないかと思えてならない。俗っぽく言えば「頭でっかち」だ。

 坐禅すれば、無限の大宇宙の中に自分が存在しているのが実感でき、自分というものが何か「本来の面目」が分かりますよ。