正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その三十五

 岩波文庫156ページ「この行・法・身・仏、おのおの承当(じょうとう)に罣礙(けいげ)あるのみなり。」

 この行・法・身・仏が自身の体と一体となり行動するところには、様々なことが起こっていくのみである。

 坐禅して行動したからといって、何もかもスムーズにほいほいと行くわけではない。そんなに世の中単純じゃない。ただ様々な困難が起こった時に、おかしな行動つまり大宇宙の真理に反する行動をとらなくなるだけのことだ。

 他人からは、途中で諦めたと見えるかもしれない、いや後退したと見えるかもしれない、あるいは方針転換したと見えるかもしれない。しかし、坐禅しているのであれば、そのようなことは、へらへら笑ってやり過ごせばいい。大宇宙の真理に従って行動しているのだから何の問題もない。というか、そのように行動するしかないのだ。他人、世間の評価などどうでもいい。大宇宙の真理は言葉では表せない。坐禅するしかないのだから。

 坐禅が普及してほしいけどねえ。