正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その三十六

 岩波文庫156ページ「承当に罣礙あるがゆゑに、承当に脱落(とつらく)あるのみなり。」

 日常生活を生きていくのには当然に色々な困難、嫌なこと、つらいことがある、しかしだからこそ自由であるのだ。

 よく電車の中で、楽に生きられる、とか成功する、とか安心を得られるなんて広告を見かける。政治家も「安心して生活ができる社会を作る」なんて、ほんとに思ってるのか疑わしいけど演説している、新聞なども生活困窮者を救えとか威張ってる。

 しかし、現実に生きることが楽な訳がない。生きるというのは一瞬一瞬が生死の分かれ目だと私は思う。毎日が平穏で幸せなんていう夢を見ちゃいけないとは言わないけど、そんなことは絶対にありえない。

 坐禅したら、安心を得て毎日が楽に送れるなんてことはない。生きるという厳しさの中で大宇宙の真理に従って生きていく、それが人間の価値だ、そう思っている。いい時もあれば悪い時もある。悪い時の方が多いんじゃないか。しかし、いいとか悪いとか、ちっぽけな人間の頭で考えたって意味がない。問題は大宇宙の真理に従って生きているかだけだ、行動しているかだけだ。それが「脱落」だと思っている。

 何が真実、真理なのか。オリンピックするためにコロナワクチンを接種する訳じゃなかろう。IOCを批判する声があるようだけど、コロナがなければIOCは批判の対象にはならないのだろうか。コロナによってIOCって何なんだ?ということが浮き彫りになっているように私には感じられる。ひいてはオリンピックって何なんだ?とも思う。

 新聞がオリンピック中止の社説を載せたらしいけど、どうなんですかねえ。新聞も売れないと困るという商売の側面も持ってるし。まあ、どうなりますことやら。

 ただ言えることは、オリンピックも結局は権力闘争、利権闘争の中にあるということ。

 権力・利権を人類はうまくコントロールできないようにならないといけない。そのためには、坐禅が不可欠。