正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その三十八

 岩波文庫156、157ページ「這法(しゃほう)に若至(にゃくし)なり、那法(なほう)に若至なり。」

 行・法・身・仏はここにも現れ存在していいるし、あちらにも現れ存在しているのだ。

 行動しているときには、世界中のいたるところに行・法・身・仏、真実が現れているのだ。

 つべこべ理屈を言っても、どんなにきれいな言葉を並べても、それだけでは真実は実現しない。

 行動によってのみ真実は実現する。そしてその行動は大宇宙の真理に適っていなければいけない。そうでない行動は誤った行動だ。

 コロナだって、いくら言葉を並べ立てても、結局はワクチンをどう接種するかに尽きるみたいになってきている。

 これからグローバル化が一層進めば感染症の拡大が起こる可能性は高くなるだろう。国家間の緊張が高まれば生物兵器の開発も進むだろう。今の人間のレベルでは生物兵器の開発をしないなんてとても言えないと思っている。

 とすれば、国を守るためには感染症対策について、人・物・金を投入して確立しておく必要があるだろう。

 一方で、個人個人は感染症が発生したとき、自分の人生として、生き方としてどうするのか個人の責任で考えておくべきだと私は思う。人は死を避けることはできない。死は常に隣り合わせであることを忘れてはいけないと思う。

 いかに行動するか。そこにしか人間の価値はない。

 LGBT法案が今回の国会にはかからないということで騒ぎになっている。法律にしないとLGBTの人たちに対する差別や偏見、不利益が排除されないということなのだろう。法律化は必要だと思う。

 本来大宇宙の真理の前では、あらゆるものが存在し、それらはすべて存在として等しいのだ。そこに差別などというものが入り込む余地はない。

 法律、法制化しなければならないのは、人間のレベルの低さ、ちっぽけな脳味噌で考えたものに囚われてしまっているからだと思う。

 坐禅して大宇宙の真理を体得しましょう。