正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その三十九

 岩波文庫157ページ「拈来拈去、出入同門に行履(あんり)する、徧界不曾蔵(へんかいふすんぞう)なるがゆゑに、世尊密語・密証・密行・密附等あるなり。」

 いろいろな行動をこの世界の中で行うのだけれど、この世界は明明白白とした世界なのなのであるから、釈尊が直接おっしゃらなかった言葉、経験、行動、教えなどがちゃんとこの世界には存在しており、それを知ることが出来るのである。

 日常生活の瞬間瞬間を一生懸命に生きる、それが「出入同門に行履」ということだと思うし、その日常生活の中に釈尊の教え、真実があるのだ。

 特別にすごいことをしなければ真実が得られないなんてことはない。普段の生活こそが大事なのだ。

 メディアでは様々な事件が取り上げられている。政治家が辞職したとか、芸能人が離婚したとか一杯。これらも突き詰めていけば日常生活の積み重ねの結果なのだ、そう思う。日頃の行いが、ある瞬間限界に達する、そんな気がする。

 選挙が近づくと政治家が駅前に立って、満面の笑みでチラシ渡したりしようとする。コロナが流行っていない頃は握手しようとしてきた。普段どこにいて何をしているか分からん奴とこんな時だけ触れ合いたくない。

 ネットでホームページとか噂とか大幅に割り引いて眺めてどんな人間なのか想像してます。

 坐禅して日常生活を一生懸命生きましょう。そこに真実・真理があります