正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その四十

 岩波文庫157ページ「出門便是草(しゅつもんべんしそう)、入門便使草(にゅうもんべんしそう)、万里無寸草(ばんりむすんそう)なり。」

 門を出れば様々なことがたくさんある、起こる。門の中に入っても様々なことがたくさんある、起こる。しかし、そんなことは当たり前のこと、ごく普通のことであってその意味では「何もない」のである。

 コロナで大騒ぎ、オリンピックで大騒ぎ。しかし、コロナの感染は人との接触の機会を減らすとか、消毒するとか、マスクするとかで一定程度は抑えられるのだし、ワクチン接種のスピードも上がってきているようだ。そう考えれば、大騒ぎすることないんじゃないか、と思ってしまう。

 オリンピックだって、決定権限はIOCにしかないそうで、やるんだったら、リスクをある程度取ってやるしかないんだろう。大騒ぎすべきことは何なのだろう?

 しかし、このようなことの前に、一人一人がどう行動するのかが問題だと思う。究極的には「どう生きるんだ、どう生きたいんだ」ということが不明確なのにつべこべ理屈言ったって何になるんだろうか?

 坐禅して大宇宙の真理を体感すれば「万里無寸草」が理屈ではなく感じられますよ。