正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その四十一

 岩波文庫157ページ「入之一字(にゅうのいちじ)、出之一字(しゅつのいちじ)、這頭也不用得(しゃとうやふようて)、那頭也不用得(なとうやふようて)なり。」

 言葉で、文字で入るとか、出るとか、こちらでもあちらでも、どこでも使う必要はない。

 言葉、文字が重要ではないということではない。しかし、観念的な言葉、文字をいくら費やしたところで、行動なしには意味がない。

 言葉や文字に支配されてしまって、現実が分からなくなってしまっているようなことが世の中でたくさん起こっているような気がする。ネットでの誹謗中傷とか、人を殺してしまったりとか。本来、人間が踏みとどまる境界の「高さ」がどんどん低くなってはいないだろうか。

 教育も大事だし、世の中に訴えることも大事だ。

 しかし、本来人間はそういう間違ったこと(大宇宙の真理に反したこと)はできないのだ。その本来に立ち戻るためには坐禅するしかない。