正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その四十三

 岩波文庫157ページ「進歩也錯(しんふやさく)、退歩也錯(ついふやさく)、一歩也錯(いふやさく)、両歩也錯(りょうふやさく)なるがゆゑに錯錯なり。天地懸隔(てんちけんきゃく)するがゆゑに至道無難(しいどうぶなん)なり。威儀儀威(いいぎぎい)、大道体寛(だいどうたいかん)と究竟(くきょう)すべし。」

 現実の世界で生きるということは、前に進んでもあやまりであり、退いてもあやまりであり、一歩踏み出す、二歩踏み出すのもあやまりであり、生きるというのはあやまりの連続である。けれど大宇宙の広大さの中では真実に至ることは難しいことではない。大宇宙の真理に従って行動することにより備わる威儀があり、釈尊のおっしゃる仏のあり方は広くゆったりしたものであると知らなければいけない。

 人間の行いに「絶対に正しい」などということは極めて難しい、稀有なことだ。しかし、毎日毎日瞬間瞬間を生きていかなければならない。そこは極めて厳しい険しいものだ。

 だが、坐禅して「大宇宙とぶっ続きになる」(澤木興道氏)、大宇宙と一体となる、大宇宙の真理を体全体で感じるとき、真実に至ることは難しいことではなく、極めてゆったりとした広大さを感じることが出来る。

 これは、坐禅を経験しないとわからない、毎日坐禅を続けないとわからない。

 尾身会長の発言に対して、担当大臣が「異なる地平の発言」とか意味不明なこと言ってるけど、言葉でどんなに言っても仕方なかろうと思ってしまう。オリンピックをするなら、できるように対策すればいいことで、色々な意見には具体的な行動計画で答えりゃいいだけのことだと思うけどなあ。

 野党も、すぐこういう言葉に乗っかってわーわー言ってるけど、どれだけの具体的な事実確認と具体的な実行可能な対応策を持っているのだろうか?甚だ疑問だ。

 言葉でぐちゃぐちゃ言ってないでやるべきことをきちんと迅速にやりゃいいだけのことと感じられてならない。言うだけなら何とでも言える。

 ほんとに言葉だけの、観念的な、頭の中で考えた思いだけの、せせこましい、狭隘な世の中だと思う。

 坐禅して大宇宙の広大さを感じましょう。