正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その四十六

 岩波文庫158ページ「この得道は、極大同小、極小同大の超仏越祖なるなり。大の有にあらざる、小の有にあらざる、疑著ににたりといへども威儀行仏なり。」

 (尽大地、尽乾坤とはどういうことかということは)極めて大きなものは(見方を変えれば)小さいということと同じであるし、極めて小さいということは大きいということと同じである。そのことにより仏を超越し、仏祖を超越するのである。大でもないし、小でもない、疑うかもしれないが、そのような態度で行動するところに仏としての威儀があるのである。

 人間の頭の中で「大きい」とか「小さい」とか考えて、その考えに囚われてしまう。その結果間違った、おかしな行動をとってしまう。世の中にはたくさんある話だと思う。「重大だ!」といきんでいる姿が滑稽だと思うことよくありませんか?「そんなものは取るに足りない小さなことだ!」と威張っていたら実はとても重要だったということ、よくありませんか?

 オリンピックってどのくらい、どうして重大なことなのか?コロナってどのくらい、どうして重大なことなのか?なんだかはっきりしない。政治家が怪しからんとだけ言っててもしょうがない。一人一人が自分で考え、自分で行動するしかない。

 坐禅した瞬間に、仏となり仏祖と同じになる。大宇宙と一体となる。きわめて広大な、勇壮な状態なのだ。時には仏を超える、仏祖を超える状態だと言ってもいいだろう。

 せせこましく、自分の脳味噌ばかり使ってないで坐禅しませんか?