正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その四十八

 岩波文庫159ページ「仏道を説著するに、胎生化生(たいしょうけしょう)等は仏道の行履(あんり)なりといへども、いまだ濕生卵生(しっしょうらんしょう)等を道取せず。いはんやこの胎卵濕化生(たいらんしっけしょう)のほかになほ生あること、夢也未見在(むやみけんざい)なり。いかにいはんや胎卵濕化生のほかに、胎卵濕化生あることを見聞覚知せんや。」

 仏道を説明するときに、本来は体内から生まれてくる、何かの変化によって生まれてくる等は仏道の中で起こる動きであるのだけれども、いまだ湿気によって生まれる、卵から生まれる等は言われていない。いわんや、今言った胎卵濕化生のほかにも生まれるということがあることについては、夢にも見たことがない。であるから、どうして頭の中で「胎卵濕化生」と考えているだけで、実際に「胎卵濕化生」を見たり聞いたり経験したりすることがあるだろうか。

 インドでは、体内から生命が生まれる、卵から生命が生まれる、湿気から生命が生まれる、何かが変化して生命が生まれる、というように考えられていたようだ。インド人というのは分類してロジックを作るのが得意なようだ。

 現代においても「生命は何故、どのように生まれたか、生まれるのか」は究極的にはわかっていないんじゃないのだろうか。だから、人工衛星(?)はやぶさ小惑星の一部を持ち帰ったり、火星で探査しているんじゃないのかな。ほかにもいろいろアプローチしているんだろうけど、1つ分かれば、またわからないことが出てきているということじゃなかろうか。

 仏教は現実の世界を説くのだから、生命がどのように誕生するかも仏教のテーマであることは当然だ。仏教は観念的に平穏とか安心とかだけを語るものではないと思う。

 生命の誕生にしても「胎卵濕化生あることを見聞覚知」、実際にこの日常生活を生きる中でとらえなければいけないのだと思う。

 仏教は雄大であり、広大である。ちまちました理論の世界ではない。

 今の世の中、何だかちまちましたことに拘って、「人間が生きる価値」という核心的なところがおざなりというか、曖昧になっていると思っている。様々な残酷な事件、オリンピックの右往左往、コロナっなど一体どうするのか、人間の生きる価値という観点での議論ではなくて、政府も自治体も野党もマスコミもみーんな行き当たりばったりにしか見えない。

 坐禅して大宇宙の真理と一体となって雄大に広大に生きましょう。それは日常生活の瞬間瞬間を一生懸命生きること、それこそが雄大で広大なことなのだと信じている。