正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その四十九

 岩波文庫159ページ「いま仏々祖々の大道には、胎卵濕化生のほかの胎卵濕化生あること、不曾蔵に正伝せり、親密に正伝せり。この道得、きかずならはず、しらずあきらめざらんは、なにの儻類なりとかせん。」

 仏、仏祖といわれる方々による真実の中には、単なる言葉での「胎卵濕化生」ではなく、現実の世界、我々の日常生活の世界に事実として「胎卵濕化生」があるということは、隠されることなく明白に伝わっており、真っ直ぐ直接に伝わってきた。この言葉を、聞いていない、習っていない、知らない、明かにしようとしないような者はどのような類のものであろうか(仏道とは関係ない者だ)。

 生命の誕生というのは、現実そのものであって、観念的・抽象的にとらえてどうなるものでもない。

 この大宇宙での生命の誕生には様々な形態があるだろう。自分自身の誕生を考えてみても、「自分の生命とは何か?」という問いは簡単なものではない。

 日常生活の現実の瞬間瞬間を一生懸命生きている、この生命とは何なのか。生きているのが当たり前みたいに思っている人が多いように思えるけど、そもそも生命とは何か。その根源を追求しなければいけない。

 コロナのワクチン接種であんだけ大騒ぎしてたのに、大規模接種場は今予約が2割程度だという。もう65歳以上の人は接種済ませたのかな?そうは思えないけど。ほんとに必死なら何が何でも接種に来るんじゃないのかな?

 問いたい。「生きるってなんですか?」一人一人がここを考えずに、大騒ぎして、右往左往したってしょうがない。

 こう書くと難解なようだけど、要は坐禅をすればいいだけのこと。