正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その五十

 岩波文庫159ページ「すでに四生はきくところなり、死はいくばくかある。四生には四死あるべきか、又、三死二死あるべきか、又、五死六死、千死万死あるべきか。この道理わづかに疑著せんも、参学の分なり。」

 すでに生については、胎卵濕化生という4つを聞いた。では死はいくつあるのだろうか。生が4つなら死も4つなのか。3つや2つということもあるのか、5つ6つ、千、万の死もあるのだろうか。こういうことをどう考えるかについて少しでも疑問を持つことも仏道を学ぶことの一部である。

 生というのを普段は意識していないし、死は必ず訪れるとは思っていても通常は死を意識はしていない。しかし、生も死も常に瞬間瞬間この心身とともにあるのだと思っている。

 生きるというのは大変なことだ。人間の価値は瞬間瞬間の行動で決まる。そして人間は死から免れることはできない。生=死なのだ。だから「死」について自分はどう向き合うのかが重要だと思っている。死は自分の意志とは無関係に訪れる。元気いっぱい明るく積極的に生きてきた人間が突然死してしまったのを実際に何人か見ている。

 死はコントロールは不可だ。生は瞬間瞬間の行動だ。人間が生きるというのは本当に生死の境の細い糸の上を歩いているようなもの。だからこそ、坐禅して大宇宙の真理と一体となって行動する必要がある。そうしなくて死の方向に転げ落ちてしまったら、寂しいものなんじゃないだろうか。

 生と死は分けられない。にもかかわらず、今の世の中、「生きる」ことだけが頭にあって、それも本当に価値のある生き方なの?と思うような生き方がすごいと思われているみたいに感じる。セレブだとか、年商・年収がいくらだとか、それと人間の価値は直接には全く関係ない。

 人間は死とともにある。だからこそ坐禅して瞬間瞬間を大宇宙の真理と一体となって行動しなければいけない。そう思っている。