正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その五十二

 岩波文庫160ページ「信法頓漸の論にもおよばざる畜類といひぬべし。ゆゑいかんとなれば、たとひ無生ときくといふとも、この道得の意旨作麼生なるべし。さらに無仏無道無心無滅なるべしや、無々生なるべしや、無法界、無法性なるべしや、無死なるべしやと功夫せず、いたづらに水草但念なるがゆゑなり。」

 (身心の功夫をさしおくようなものは)信じればすぐに真理を得られるとか、この世界の森羅万象に従っていけば少しずつ真理を得ていくというような理屈にもおよばない浅ましいものと言わざるを得ない。どうしてかと言うならば、無生と聞いても、この無生という言葉の意味するところはどういうことであるか、さらに、無仏(仏など存在しない)、無道(仏道など無い)、無心(心など無い)、無滅(滅することなど無い)ということもあるのか、無生自体が無いということもあるのか、法(大宇宙)の世界など無いのか、法(大宇宙)というものが持つ性質など無いのか、死というものも無いのかと様々な色々な視点から切り口から考えず、ただ水草のようにふわふわしているだけであるからである。

 宇宙が生まれる前はどんな状態だったのかはわからないらしいし、この後宇宙はどうなるのかもわからないらしい。この世界は分からないことに満ち満ちていると思う。 

 人間が生きるのだって単純ではない。私も坐禅していると自分の体の状態が毎日変化している、また坐禅の最中にも変化していくのを感じる。日本という国だって、いろんな人間がいろんなことを考えていろんなことをしている。自然災害も起こる。訳もなく人を殺す奴もいる。自分も含めて世界は宇宙は「無常」常に変化しているのだ。

 政治家の言うことを聞いていると、「これが正しい。自分は正しい」「あいつは全く駄目だ」「万死に値する」とか極端なことばかり言っているようにしか思えない。自分の言っていることが本当に正しいのか、いろんな立場の人間が言うことは本当に正しくないのか、道元禅師がおっしゃるように様々な角度から考えているのだろうか。

 ただ、色々な角度から事実を確認し、よくよく検討すると、「ごく当たり前の、普通の結論」になると思う。これでは政治家としての迫力がなくなってしまうだろうね。選挙って対立軸を作ってわーわー騒いで戦わないと駄目らしいし。

 けれど大宇宙の真理は、ごく普通のことだし、当たり前のことだし、だから坐禅すると当たり前の人、普通の人にしかならない。

 「自分は自分は!」と人を押しのけてでも目立とうなんて人間にはならない。今の世の中それではつまらないんでしょうね。でも、これは真理を見失ってしまっているからに他ならない。

 生死という人間が避けられない、きちんと向かい合うしかないことも疎かになってしまっているのはまずいと思う。

 どうするか。正法眼蔵を読んで坐禅すればいいのだ、私はそう信じている。