正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その五十三

 岩波文庫160ページ「しるべし、生死(しょうじ)は仏道の行履(あんり)なり、生死は仏家の調度なり。使也要使(しやようし)なり、明也明得(みんやみんて)なり。ゆゑに諸仏はこの通塞(つうそく)に明々(めいめい)なり、この要使に得得なとくとく)なり。この生死の際にくらからん、たれかなんぢをなんぢといはん。たれかなんぢを了生達死漢といはん。生死にしづめりときくべからず、生死にありとしるべからず、生死を生死なりと信受すべからず、不会(ふうい)すべからず、不知すべからず。」

 知らなければいけない。生死は仏道の中に生きている中の実際の行動である。生死は仏の家の家具のように身近な物であり、使おうとすれば使いこなせるものであり、明白なものである。そういうことであるから、仏と言われる方々は生死とはなにかということを体得されていることは明らかであるし、生死を使いこなすことが可能なのである。この生死の問題がよくわからないようでは、誰が「お前はお前自身そのものだ」というだろうか(自分自身になりきっていない)。生死の中に沈み込んでしまっているというべきではないし、生死はあると言葉の上だけで知っているということであるべきではないし、生死を言葉の上だけで理解して信じるべきではないし、分からないとか知らないとかいうべきではない。

 人間にとって一番身近なものは「生死」なのではないかと思う。意識していはいないけれど、死は常に生とともにある。死を恐れて身動きが出来なくなってもしょうがないし、生に執着して誤ったことをしでかしてもいけない。

 生死は絶対的なもので、この現実に生きている以上観念的なものではなく、日常生活の瞬間瞬間が生死の繰り返し、生死の瀬戸際と言ってよいのではないかと思う。だから、日常生活の瞬間瞬間を大事に丁寧に生きなければならない。それは坐禅して心身が大宇宙と一体となって行動することだ。

 世界の情勢を見ても生死は常に身近にあると思う。日本は表面的には戦争状態ではないし、身の危険を常に感じている人は少ないだろう。しかし、上にも書いたとおり、日常生活は生死の瞬間瞬間の繰り返しであり、死は常にすぐ隣にある、いや生と一体なのだ。だから、坐禅が必要なのだ。坐禅なしにこのことはいくら頭の中でこねくり回しても絶対にわからない。