正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その五十四

 岩波文庫161ページ「あるいはいふ、ただ人道のみに諸仏出世す、さらに余方余道には出現せずとおもへり。いふがごとくならば、仏在のところ、みな人道なるべきか。これは人仏の唯我独尊の道得なり。さらに天仏もあるべし、仏々もあるべきなり。諸仏は唯人間(じんかん)のみに出現すといはんは、仏祖の閫奥(こんおう:奥の間)にいらざるなり。」

 あるいは次のように言う者がいる。人間界にのみ諸仏が現れる、人間界のほかには諸仏は現れない。そう思っている。もしそういうことなのであれば、仏が存在するところはすべて人間の世界なのか。このようなことを言うことは、人間の世界の仏だけを尊いものとする言葉である。人間界のほかに、天上界の仏もあって当然であるし、仏の世界の仏もあって当然である。諸仏は人間の世界にのみ現れるというのは仏道の根本、ずっと深いところまで至っていないからである。

 仏は大宇宙の真理を体得したものである。大宇宙が対象なのであって、人間界などという極く小さい、大宇宙のほんの一部が問題なのではない。

 坐禅していると、大宇宙の中で自分というものがいかに小さい存在かということを感じると同時に、自分は大宇宙と一体、一続きになっているという感覚も生まれる。その両方の感覚が大事なのではないかと思っている。

 そのような中では、些末な問題はどうでもいい、人間のちっぽけな脳味噌で思いついたことに振り回されることのくだらなさ、そもそも差別などないというように体感する。

 野党が内閣不信任案を出して、当然否決される。今後の選挙を考えてのパフォーマンスなのだろうが、茶番にしか思えない。なんでもっと本質的な、現実的な、具体的な行動がとれないのだろうか。自分たちの脳味噌を占めている考えに囚われて現実が見えていないとしか思えない。

 政府・与党も似たようなもんだと思う。だから、こんな茶番じゃないやりようはいくらもあると思うけどなあ。

 いずれにしても、一人一人が大宇宙の真理と一体となって行動する、普通に当たり前に行動するようになるしかない。そのために坐禅しましょう。