正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その五十六

 岩波文庫162ページ「仏々正伝する大道の、断絶を超越し、無始無終を脱落せる宗旨、ひとり仏道のみに正伝せり。自余の諸類、しらずきかざる功徳なり。行仏の設化するところには、四生あらざる衆生あり。天上人間法界等にあらざるところあるべし。行仏の威儀を覰見(しょけん)せんとき、天上人間のまなこをもちゐることなかれ、天上人間の情量をもちゐるべからず。これを挙して測量せんと擬することなかれ。十聖三賢(じっしょうさんげん)なほこれをしらずあきらめず、いはんや人中(にんちゅう)天上の測量のおよぶことあらんや。人量(にんりょう)短小なるには識智も短小なり、寿命短促なるには思慮も短促なり。いかにしてか行仏の威儀を測量せん。」

 仏と言われる方々が正しく伝えてこられた仏道の大道は、途絶えるなどという概念を超越し、始めが無いとか終わりが無いとかいう観念論を捨て去っており、その重要なことは、仏道のみに正しく伝わっているのだ。そのほかの者達は知らないし聞いたこともないことである。坐禅して大宇宙の真理と一体となって行動して周りに影響を及ぼすところには前に書いた4つの生以外の様々な者達がいる。天上世界、人間の世界、法の世界など人間が考える世界ではない世界があって当然である。坐禅して大宇宙の真理と一体となって行動しているときの威儀をちょっとでも見るとき天上世界や人間の世界の目を使って見ることをしてはいけない。天上世界や人間の世界の感情で扱ってはいけない。これらを使って推し量ろうとしてはいけない。菩薩はやはりこのことを知らないし理解していない。いわんや、人間や天上界が考えようとしても及ぶことはない(できない)。人間の能力は小さなものだから、その考えも小さなものである。寿命も短いのであるから思慮も不足である。どのようにして坐禅して大宇宙の真理と一体となって行動している威儀を理解できるだろうか。

 私はここでは、大宇宙は無限である。大宇宙そのものも突き詰めることのできない無限さを持っているということが言われているということが1つ。もう1つは人間の頭の中の考え、人間の観念的な基準では「坐禅して大宇宙の真理と一体となって行動」ということは理解できないということが言われていると思っている。

 人間は小さな儚い存在だ。しかし、坐禅することで大宇宙と一体となることが出来るのだ。そうなれば人間には無限の可能性がある。つまり真理に従って行動する、それは仏そのものであって威儀が備わるのだ。

 宇宙というのは研究すればするほど「何故?」ということが次から次へと出てくるそうだ。ここに書かれていることはまさにそのことと一致すると私は感じる。

 今の世界の価値基準って何なんだろう?日本国内も小手先のことでうろうろしているし、世界も何だか「国益」を守ろうとして喧嘩している。

 坐禅して、大宇宙の無限さ広大さ、そして自分の小ささを体感し、その上で大宇宙の真理と一体となって行動する、そこに本当の価値、威儀が現れる、そこのとを理解してもらえないかなあ。