正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その五十八

 岩波文庫163ページ「いま凡夫の活計(かっけ)する有念無念、有覚無覚、始覚本覚等、ひとへに凡夫の活計なり、仏々相承(そうじょう)せるところにあらず。凡夫の有念と仏の有念と、はるかにことなり、比擬することなかれ。凡夫の本覚と活計すると、諸仏の本覚と証せると、天地懸隔(てんちけんきゃく)なり、比論の所及(しょぎゅう)にあらず。十聖三賢の活計、なほ諸仏の道(どう)におよばず。いたづらなる算沙(さんじゃ)の凡夫、いかでかはかることあらん。しかあるを、わづかに凡夫外道の本末の邪見を活計して、諸仏の境界(きょうがい)とおもへるやからおほし。諸仏いはく、此輩罪根深重なり、可憐愍者なり。」

 仏道修行をしていない(坐禅をしていない)人々が、頭に浮かぶ考えが有るとか無いとか、真理が分かったとか分かってないとか、今真理が分かったとか真理はもともと備わっているとか、そのようなものはただ修行をしていない人々が頭の中で考えているものに過ぎないのであって、仏と言われる方々が受け継いでこられたものではない。修行をしていない人々の頭に浮かぶものと仏と言われる方々のそれと全く違うものであるのであるから、比較しようなどとしてはならない。修行していない人々が真理はもともと備わっているなどと頭の中で考えることと、諸仏の真理を体験されていることは天地のように遥かに隔たっているものであり、比べるなどということ自体が意味のないことである。菩薩(十聖三賢)と言われる人々でさえやはり仏と言われる方々には及ばない。無駄に頭の中で、まるで砂粒がいくつあるかを数えているような人々にどうして諸仏のことを推し量ることが出来るだろうか。それなのに、わずかばかりの仏教の知識や仏教ではないものの知識で「本来は」とか「細かいところは」とかについて間違った考え方をしているにもかかわらず、自分は仏と言われる方々の状態だと思い込んでいる輩が多い。仏と言われる方々は、このような輩の罪の根は深く重い。哀れな者と言わざるを得ないとおっしゃっている。

 坐禅して大宇宙の真理と一体となって行動することがすべて。そこに威儀が備わる。

 しかしまあ、世の中、自分の頭の中の知識、わずかばかりの経験で、自分はすごい、自分はよくわかっている、と無邪気に威張っている人が多いですね。

 都議選の候補者が大声で「私は正しい。私はすごい」と叫び続けているけど、自分の頭の中の考えに囚われ、呪縛の中で叫んでいるようにしか見えない。まあ、そうやって叫ばないと当選しないんでしょうね。レベルの低い話だとしか思えないけど、これが今の現実なんでしょう。

 真理は、大声で叫ぶとか、目立つ言動をするとかにはないと信じている。真実は坐禅して大宇宙の真理と一体となって行動することでしかなく、そしてそれはごく普通に日常生活の瞬間瞬間を生きていくことなんだと思っている。このことなしに、個人の人生や社会は成り立たないと思っているけど、どうも世の中そうはなっていないようですね。

 坐禅しましょう。