正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その六十

 岩波文庫162ページ「上天にしては化天(けてん)す、人間にしては化人(けにん)す。花開(けかい)の功徳あり、世界起(せかいき)の功徳あり。かつて間隙(けんぎゃく)なきものなり。このゆゑに自他に迥脱(きょうとつ)あり、往来に独拔あり。即往兜率天(とそつてん)なり、即来兜率天なり、即々最近では強めのなり。即往安楽(あんらく)なり、即来安楽なり、即々安楽なり。即迥脱兜率(そくきょうとつとそつ)なり、即迥脱安楽なり。即打破百雑碎安楽兜率(そくたあははくざっすいあんらくとそつ)なり、即々把定放行安楽兜率(そくそくはちんほうあんあんらくとそつ)なり、一口呑尽(いっこうたんじん)なり。」

 天上世界においては、天を教化し、人間世界では人を教化する。そのことによって真理が伝わり花が開き、世界が立ち上がる。そのことはずっとつながっているのである。そのような中では、自他の区別など抜け落ち、独立独歩で進んでいくことが出来る。真理の世界にすぐに行くこともできるし真理の世界からこちらにやってくることもできるし、行くとか来るとか関係なく真理の世界そのものであるともいえる。安楽な状態になることもできるし、安楽な状態から抜け出すこともできる。今この状態が安楽と言えるし、すぐに真理から抜け落ちることもできえる、すぐに安楽から抜け落ちることもできる。このようなことは、安楽や真理などというものを粉々に打ち砕くことでもあるし、安楽や真理を捉えたり、放したりもできる。真理とか安楽とかを一口に吞み込んでしまうこともできる。

 ここのところは、坐禅して大宇宙の真理と一体となって行動しているときの状態、日常生活の瞬間瞬間を一生懸命に生きている、行動しているときの状態のことを書いておられるのだと思っている。その時には、「兜率」だとか「安楽」だとか言っている暇はない。しかし、この行動しているときこそ「真理」の状態なのであると思っている。大宇宙を吞み込んで一体となっているのだ。自分や他人の区別など無くなり、その中で大宇宙の真理と一体となって行動する。日常生活を一生懸命生きるというのはこのように壮大な意味を持っているのだ。

 この頃何だか、ちまちましたことで大騒ぎばかりしているような気がしてならない。オリンピックの入場の上限を1万人にする、ということがどういうことなのか、その本質が全く分からない。オリンピックはやらない訳にはいかないという理由が分からないし、やらなければならないなら当然リスクは取らなきゃならないし、その取るリスクの大きさはどのくらいなのか、どのようにコントロールするのか、リスクが発現した場合のワーストシナリオはどういうもので、その時はどうするのか、とか肝心なことがわからない。いろんな人が局所的なところでわーわー言ってるようにしか見えない。

 坐禅して「一口呑尽」した人がいないんでしょうなあ。やれやれ。