正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その六十一

 岩波文庫165ページ「しるべし、安楽兜率といふは、浄土天堂ともに輪回することの同般なるとなり。行履(あんり)なれば、浄土天堂おなじく行履なり。大悟なれば、おなじく大悟なり。大迷なれば、おなじく大迷なり。これしばらく行仏の鞋裏の動指なり。あるときは一道の放屁声(ほうひしん)なり、放屎香(ほうしきょう)なり。鼻孔(びくう)あるは齅得(きょうて)す、耳処(にしょ)・身処(しんじょ)・行履処(あんりしょ)あるに聴取(ちんしゅ)するなり。又、得吾皮肉骨髓(とくごひにくこつずい)するときあり、さらに行得(あんて)に他よりえざるものなり。

 安楽とか兜率というのは、浄土とか天堂といわれるものと同じように、繰り返されるものと言う意味で同じである。行動という観点から言えば浄土も天堂も同じく行動の場なのであり、悟ったと言うなら悟ったと言うことであり、迷いと言うなら迷いなのだ。このように色々言ってみたところで、行動している仏が草鞋を履いている指を動かすようなものに過ぎない。ある時は屁をする音であり、排泄物の臭いである。鼻があれば臭いがするし、耳・身体・行動しているところに聞くことがある。達磨大師から真実の皮肉骨髄を得ることもあるし、誰にも依存せず行動により得るものもある。

 私は、ここでは徹底的にこの現実の中で行動することによってのみ大宇宙の真理が得られるのだということをお書きになっていると思う。

 安楽、兜率、浄土、天堂、輪廻に神秘的なものとする必要はなく、ただただこの現実、日常を一生懸命生きることが真実だということだと思っている。悟りとか迷いなんて言ってる暇はない。頭の中の考え・理屈は草鞋を履いている足の指が動くようなものに過ぎないし、屁の音、排泄物の臭いのような現実としっかり向き合わなければならない。そこに真理を得るということがある。

 仏教がいわゆる「仏教用語」をいじり回しているのではないか、と思えてならない。仏教自体が現実感を失ってはいけないと思う。

 オリンピックを巡る議論も上っ面の言葉ばかりと感じられる。オリンピック会場で酒を出すとか出さないとか、今の目の前の現実を見れば議論するまでもないだろうにと思ってしまう。ま、色々事情があるんでしょうね。結局酒は出さないようになったみたいだけど(色々なやりとりがあったんでしょうね。そう簡単にスポンサーが諦めますかね?)

 また、ブログに誹謗中傷の書込みをする人たちがいるそうだが、それが現実にどういうことなのか分からないという人たちがいるということなのだろう。ちょっとしたことで激昂する、キレるという人も増えている感じがする。当たり前の現実に向き合えない人が増えているとしたら恐ろしいと思う。

 日常生活を普通にこつこつ一生懸命生きることにしか人間の価値は生まれない。そのことが社会に浸透しなければいけないと思う。

 その一番の近道は坐禅して大宇宙の真理と一体となることだ。これは坐禅しなければ分からない。そして坐禅した瞬間に仏となるのだ。これは事実なのだ。