正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その六十二

 岩波文庫165、166ページ「了生達死(りょうしょうたっし)の大道すでに豁達(かったつ)するに、ふるくよりの道取あり、大聖は生死を心にまかす、生死を身にまかす、生死を道にまかす、生死を生死にまかす。」

 生死についての理解についての偉大な生き方をしっかり解明したとき、昔から言われていることがある。それは、大宇宙の真理を体得した方は、生死を自分の心に任せる、自分の体に任せる、生死を大宇宙の真理に任せる、生死は生死でしかないのでそのままに任せる。

 ここで間違ってはいけないのは、心や身に任せると言っても、その心身は坐禅した心身であるということである。大宇宙の真理と一体となった心身だ。だから、生死を大宇宙に任せるということと同じであるし、そのような状態というのは、つべこべ頭の中で考えた理屈などは不要であり、生死は生死でしかないということになる。だから、坐禅した心身で一生懸命日常生活を普通に生きることが、「生死を生死に任す」ということだと思っている。

 自由に生きる、個性を活かす、多様性を尊重する。どれもそのとおりだと思う。ただ、その前提として「人間の価値とは何か」がないと、単なる自分勝手、自己本位の我儘、幼稚な言動になってしまう。世の中で起こっている事件などまさにそんな感じじゃなかろうか。

 もっともらしい理屈は世の中に溢れている。理屈などというものは、立場立場でいかようにでも作れる。お互いに自分の都合の良い理屈を作って喧嘩しているようではレベルが低すぎる。しかし、現在の人類のレベルはこのレベルだと思う。

 坐禅するしか、このレベルから脱することはできない。そう信じている。