正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その六十五

 岩波文庫166、167ページ「しかあれば、句中取則(くちゅうしゅそく)し、言外求巧(ごんげぐぎょう)する再三撈摝(ろうらく)、それ把定(はちん)にあまれる把定あり、放行(ほうあん)にあまれる放行あり。その功夫は、いかなるかこれ生、いかなるかこれ死、いかなるかこれ身心、いかなるかこれ与奪、いかなるかこれ任違。それ同門出入の不相逢(ふそうふ)なるか、一著落在(いちじゃらくざい)に蔵身露角なるか。大慮而解(だいりょにげ)なるか、老思而知(ろうしにち)なるか、一顆明珠(いっかめいしゅ)なるか、一大蔵教なるか、一条挂杖なるか、一枚面目なるか。三十年後なるか、一念万年なるか。子細に撿点し、撿点を子細にすべし。撿点の子細にあたりて、満眼聞声(まんげんもんしょう)、満耳見色(まんにけんしき)、さらに沙門壹隻眼(しゃもんいしゃくげん)の開明なるに、不是目前法なり、不是目前事(ふしもくぜんじ)なり。」

 1つの言葉の中から真実を得る、あるいは言葉以外のところに真実を求める、このようなことを何回も繰り返し掬い取っていく中で、捉えるという言葉では表現できない捉えるということがあり、すべてを解き放つという言葉では表現できない解き放つということがある。このように追い求めていくものは、生とはどのようなものか、死とはどのようなものなのか、身心とはいったい何なのか、与える・奪うとはどういうことか、任せるのか自分独自の行き方を取るのかどうするのか、というようなものである。これらは1つの門を出入りしているが出会うことはないというものなのか、碁石を打つというような小さな行動の中にすべてが含まれちょっとだけ姿が現れているというものなのか。大所高所から考慮して理解できるというものなのか、何年も年を重ねて知るものなのか。この世界は明るく輝く珠のようなものなのか、釈尊の教えの経典なのか。一本の柱のようなものなのか、一つの面目のようなものなのか、三十年後というような時間の問題なのか、今の瞬間の思いの中に万年の時間が含まれているのか、子細に検討しなければいけない、検討を子細にしなければいけない。この子細に検討するにあたっては眼で声を聞き、耳で物を見る(全身で把握する)、僧侶が1つの眼を開くというのは、目の前の世界を見るのではなく、目の前の事物を見るのではない。

 ここのところは、長く、難解だけれど、私はこれは坐禅しているときの境地の表現だと思っている。全身が大宇宙と一体となった時、人間が色々と考えたり、言ったりすることが混然一体となって受け止められる状態となることだと思っている。坐禅して大宇宙の真理と一体となって行動するとき直観が働く。目で見る、耳で聞くというようなことを超越して身心全体で把握し、行動することが出来る。

 坐禅した心身の直観は間違うことはない。間違ったとしても、その瞬間「あ!しまった」と気づいて次の行動ができる。

 小学生に酒酔い運転のトラックが突っ込むという痛ましい事故があった。企業や行政に責任はある。だが、究極的には一人一人の行動が正しくできるかに尽きてしまう。法律でどんなに縛っても、安全対策をどんなに行っても、人間の行動が改まらない限り問題は解決しない。

 坐禅してもらいたいが、中々そうはならないだろう。せめて事実関係を克明にして、具体的にどうすれば事故が再発する可能性を下げられるのか、その施策を実施するしかない。その施策を妨げる要因があるのなら、それこそを明らかにしなければいけないだろう。そう思う。