正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その六十六

 前回についてちょっと補足したい。それは「満眼聞声(まんげんもんしょう)、満耳見色(まんにけんしき)、さらに沙門壹隻眼(しゃもんいしゃくげん)の開明なるに、不是目前法なり、不是目前事(ふしもくぜんじ)なり」の箇所だ。

 満眼聞声(まんげんもんしょう)、満耳見色(まんにけんしき)について、岩波文庫の脚注には「声を聞くのは耳だけではなく、色を見るのも目だけではない。全身心のはたらきである」とされている。そのとおりだと思う。

 私なりに思っていることを書いてみる。坐禅していると、自分が大宇宙の中にいる、自分は大宇宙の一部だと感じることがある。大宇宙の一部が人間という形をとっている、と言ってもいいかもしれない。ただ、これはいわゆるスピリチュアルとかいうものではない。本来の状態に戻っただけのことだ。心身がバランスして、頭の中の考え、欲望などから解放されて、「本来の面目」に戻っただけのことだ。

 この状態では、直観が働く。人間は瞬間瞬間行動しなければいけない。瞬間瞬間が生死の分かれ目だ。だから直観が働かないと危険だ。直観はまさに直観なのでうまく説明できないが、目で見る情報、耳で聞く情報以上のものを全身で受け止め瞬時に判断するとでも言おうか(ちょっと違う気もするが)。「あ、これは駄目だな」とか「よし、行け」とか瞬間的に判断できる。坐禅した心身の直観は間違わない。それは大宇宙の真理と一体となっているからだ。仕事をしているときでも、現場によって足を踏み入れた途端「あれ、ここはなんか変だな。問題ありそうだな」と感じることがあって、それは外れたことはない。

 僧侶の目を開けたとしても、その目が見るものは見える範囲のものだけではなく、大宇宙の真理を全身で受け止めるということだと思っている。

 話は少しそれるが、坐禅と瞑想をごっちゃにしている人がいるように思う。毎回書いているけど、坐禅は大宇宙の真理と一体となることだけど、それは当たり前の状態に戻ること、普通の人間になることだ。瞑想のことは全然勉強してないけど、瞑想すると不思議な神秘的な能力が備わるみたいなことを言ってお金をもらっている人たちがいるらしい。どんな能力なのか知らないけど、普通の人間になるのが最高の価値だと思っているので、全く興味がない。

 有名になったり、お金を儲けたりするのが価値だという世の中は、儚いし危険だと思っている。人間が本来の姿になり、普通に当たり前に一生懸命に生きることが人間としての価値ということにならないといけないと思っている。坐禅しましょう。