正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その六十七

 岩波文庫167ページ「雍容(ようよう)の破顔(はがん)あり、瞬目あり。これ行仏の威儀の暫爾(ざんじ)なり。被物牽(ひもつけん)にあらず不牽物(ふけんもつ)なり。縁起の無生無作(むしょうむさ)にあらず、本性・法性(ほんしょう・ほっしょう)にあらず、住法位にあらず、本有然(ほんゆうねん)にあらず。如是を是するのみにあらず、ただ威儀行仏(いいぎぎょうぶつ)なるのみなり。」

 (釈尊が魔訶迦葉(まかかしょう)に法を継いだ時のように)穏やかににっこりと瞬きをする。このようなことが、大宇宙の真理と一体となって行動する仏の威儀が現れている時である。周囲のものや頭の中の考えに引っ張られるのではない、そのようなものに取り合わないのである。いろいろなものの関係の中から生じないとか何もしないということではないし、本来の性質であるとか宇宙の法則とかでもない、宇宙の中に生きているとかいうことでもないし、もともとのあり方であるということでもない。あるがままでよいとするだけでもない。ただ大宇宙の真理と一体となって行動する仏には威儀が備わっているということなのである。

 ○○にあらずということが続いているけれども、ここは言葉の上での観念論ではないのだ、ということだと思っている。破顔微笑(はがんみしょう)、瞬目というような具体的な行動そのものにしか威儀は備わらないということだと思う。

 日常生活の1つ1つの行動が問題なのだ。酒酔い運転で小学生の列に突っ込むという結果が生じたのは、運転手の日常の行動がおかしかったからであり、勤務している会社の日々の業務のあり方に問題があったからであり、行政が地域の実情を捉えようとする日々の活動に問題があったからだ、そう思う。

 路上禁煙といっても守らない、歩きスマホは危険といってもやめない、駆け込み乗車は危険といってもやめない、こういうものを軽視してはいけない。このような間違った行動をとることと上の酒酔い運転事故は本質的には同じだ。日常生活の瞬間瞬間の行動にしか、その積み重ねにしか人間の価値はないのだから。

 坐禅しましょう。