正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その七十三

 岩波文庫170ページ「しるべし、諸仏の火焔は諸類の火焔なるべからず。又、諸類は火焔あるかなきかとも照顧(しょうこ)すべし。三世諸仏の在火焔裏の化儀(けぎ)、ならふべし。火焔裏に処在する時は、火焔と諸仏と親切なるか、転疎なるか。依正(えしょう)一如なるか、依報正報あるか。依正同条なるか、依正同隔(どうきゃく)なるか。「転大法輪」は転自転機あるべし。展事投機なり、転法・法転あるべし。すでに転法輪といふ、たとひ尽大地これ尽火焔なりとも、転火輪の法輪あるべし、転諸仏祖の法輪あるべし、転法輪の法輪あるべし、転三世の法輪あるべし。」

 知らなくてはいけない、仏といわれる方々の炎はその他のものの炎とは当然違うものだ。また、その他のものには炎というものがあるのかないのかということもいろいろ照らし合わせて考えなければいけない。過去・現在・未来の仏といわれる方々が説かれたこと勉強しなければいけない。炎のように燃え盛っている日常生活の中において、炎と仏といわれる方々は非常に近しいものなのか、一定の距離を置いているものなのか。客体と主体は一つのものなのか、客体は客体、主体は主体なのか、客体と主体は一つとなって機能するのか、離れて機能するのか。大宇宙の真理を展開するということは自らを動かし周囲のものを動かすということである。具体的なことを動かし状況を動かすのであり、法を動かし、法に動かされるのである。転法輪と言っているが、この大地すべてがすべて炎とであるとして、炎の輪を転ずるという形の法を説くということもあるし、仏といわれる方々を展開して法を説くということもあり、法を展開して法を説くということもあり、過去・現在・未来という永遠の時間を展開することで法を説くということもある。

 私も十分に理解してるとは言えないが、ここでは主体と客体、環境と自分自身、炎のように燃え盛っている日常生活の中で、この大宇宙の中で、大宇宙の真理とどのように取り組んだらよいのか、ということが書かれているのだと思う。

 主体と客体のあり方は、時間と環境の中で瞬間瞬間変化する。その中でどのように生きるか。同じことしか書かないが、坐禅して大宇宙の真理と一体となって行動するしかない。このことを道元禅師は色々な角度から解説をされているのだと思っている。

 最近のオリンピックとかコロナについて何が何だかよくわからないというのが正直な感想だ。何が重要で何を実現したいのだろうか?

 大宇宙という壮大な中で、ちまちましたことばかりやっている印象が否めない。

 酒を提供する店に金融機関が働きかけるとか、酒を卸すなとか、見当違いお門違いのみみっちい意地悪としか思えない。

 現実の世界が分かっているとはとても思えない。どう考えたって民間人・民間業者がそんなことできる訳ないでしょう。さすがに金融機関は撤回したらしいけど。思いつくというのはどういう思考回路なのだろうか。

 本当に飲食店で酒を出したところが感染拡大の起点なのだろうか。その具体的なデータは示されているのだろうか。

 大人数で大騒ぎしなきゃいいだけなのでは?国民はそんなことは守れないと思ってるのかな?

 でも、公園とか河川敷とか路上とかでたむろして昼・夜酒飲んでる人たち大勢見かけれけどね。こっちの方が危ないのでは?じゃあ、コンビニとかスーパーとかで一切酒売るなとは言えないでしょう。

 オリンピックやるんだから、もう毒食わば皿まで、当たって砕けろでいいじゃないかと思ってしまう。

 結局は国民一人一人の行動でしかない。政治がそれを規制しようたって限界があるに決まっている。

 坐禅して、今どう行動すべきか、坐禅に教えてもらいましょう。