正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その七十四

 岩波文庫171ページ「しかあればすなはち、火焔は諸仏の転大法輪の大道場なり。これを界量・時量・人量(にんりょう)・凡聖量(ぼんしょうりょう)等をもて測量(しきりょう)するは、あたらざるなり。これらの量に量ぜられざれば、すなはち「三世諸仏、在火焔裏、転大法輪」なり。すでに三世諸仏といふ、これ量を超越(ちょうおつ)せるなり。三世諸仏、転法輪道場なるがゆゑに火焔あるなり。火焔あるがゆゑに諸仏の道場あるなり。」

 そのようなことであるので、炎のように燃え盛っている日常・今のこの現実の世界が仏といわれる方々が大宇宙の真理を展開される偉大なる場所・道場である。このことを大きさや時間や人間の頭(の中の考え)や優れているとかいないとかという尺度で測ることはできない。このような尺度では測れないのであるからすなわち「三世諸仏、在火焔裏、転大法輪」と言うしかないのである。ここで過去・現在・未来永遠の仏といわれる方々と言っている、これは何かの尺度・基準(人間が頭の中で考えるもの)は超越しているのである。過去・現在・未来永遠の仏といわれる方々は、今この現実の世界で日常生活の中で大宇宙の真理を展開されている。だからその様子は炎のように燃え盛っているのである。炎のように燃え盛っているからこそ仏といわれる方々の大宇宙の真理を展開する場所としてあるのである。

 現実の世界、この日常生活は炎のように燃え盛っている、激しく燃え盛っている。だから瞬間瞬間が生死の境目、一生懸命に生きるしかない。この現実を、日常生活をしっかりと見つめ、把握し、大宇宙の真理に従って行動しなければいけない。瞬間瞬間判断しなければいけない。そのためには坐禅した心身による直観が必要だ。

 この前も書いたけど、西村とかいう大臣が酒を出す飲食店に金融機関が意見しろとか、酒を卸すなとか言って騒ぎになっている。

 これは、どう考えても現実離れしている。こんなことできっこない。案の定、責任問題になっている。内閣や自民党にも打撃だそうだ。

 こういうことが言えてしまうというのは、この現実が燃え盛る炎のように激しく、厳しいという実感がないのじゃなかろうか。いやはや困ったもんだ。

 野党も鬼の首を取ったかのように騒いでいるが、この問題は別として、野党の掲げている政策や日頃の言動を見ていると、こちらも自分たちの極めて小さな世界に固執して騒いでいる。これはこれで現実がちゃんと見えていない。そう思えてならない。

 坐禅しないと駄目なんだけどなあ。

 一つだけ坐禅について言うと(前にも書いた気がするけど)、「坐禅して無になる」なんてことはない。「無」なんて訳の分からないものになるために坐禅するのではない。道元禅師も「諸縁を放捨し万事を休息」と書かれている。頭に何か浮かび上がってきたらそれを放っておいて追いかけるなということだと思っている。色々なことが次々と浮かんでくる。普段自分がどれだけ様々なことを追いかけているかがわかる。それをやめる。すると本来の面目が現れる。色々なことが浮かんでくるのを止めるのが坐禅の目的ではない。坐禅の姿勢を取ることで身心がバランスする。そのとき大宇宙と一体となる。自分が色々な思いに纏わり付かれているのに気付く。それが坐禅だと思っている。

 坐禅してみてください。