正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その七十五

 岩波文庫172ページ「玄沙いはく、「火焔の三世諸仏のために説法するに、三世諸仏は立地聴法す」。この道をきゝて、玄沙の道は雪峰の道よりも道得是(どうてし)なりといふ、かならずしもしかあらざるなり。しるべし、雪峰の道は、玄沙の道と別なり。いはゆる雪峰は、三世諸仏の転大法輪の処在を道取し、玄沙は、三世諸仏の聴法を道取するなり。雪峰の道、まさしく転法を道取すれども、転法の処在かならずしも聴法不聴を論ずるにあらず。」

 玄沙師備禅師は火焔の三世諸仏のために説法するに、三世諸仏は立地聴法す」とおっしゃった。この言葉を聞いて、玄沙師備禅師の言葉は雪峰義存禅師の言葉よりも正しいことを言っているというものがいるが、必ずしもそうではない。知らなくてはいけないのは、雪峰禅師の言葉は玄沙禅師の言葉とは別のことを言っているのである。雪峰禅師は永遠の仏といわれる方々が法を説く場所を言っており、玄沙禅師は永遠の仏といわれる方々が法を聞くということを言っておられるのだ。雪峰禅師の言葉はまさしく法を説くことを言っているのだが、法を説く場所ということは必ずしも法を聞く聞かないを論じているのではない。

 道元禅師は非常に論理的に考え、説かれている。法・大宇宙の真理が説法されている場合の聞き方の問題と説法をする場所の問題という全く別のことを言っている言葉について比較しどちらが優れているとか言うのは正しいとは言えない、と書いておられる。これはそのとおりだろう。

 禅問答という言葉がある。何だか意味の良くわからないやり取りというようなこと。禅に関わる問答が分かりにくいということから生まれたのかもしれないが、正法眼蔵は極めて明確なロジックを以て構成されている。禅に対する誤解が根強いなあと思う。僧侶もこの誤解を解くために何か活動しているのだろうか。少なくともネット上では納得のいく文章を読んだことはない。

 コロナを巡る議論も、オリンピックを巡る議論もぶつ切りの言葉ばかりで全体として何を言っているのかよくわからない。何がしたいのだろう。広く大きな視点から現実を捉えて全体としてどうするのかを論理的に誰も言っていないのじゃないか。散発的にあーだこーだ言ってるばかりで政府もそうだが、批判している人たちもチマチマした発言ばかりだという印象。

 連合が立憲民主党と国民民主党と個別に政策協定を結ぶのだそうだ。共産党の扱いを巡ってうまくいかないらしい。三者それぞれの言い分も意味不明だ。自民党を批判してるけど、自分たちの言ってることも十分怪しげですぜ。

 共産主義をどう扱うのかは、極めて重要なことであるのに曖昧模糊。そんなにまでして権力を手に入れたいんですかね。自民党と変わらんじゃないか、と思ってしまいます。まあ、深謀遠慮があるんでしょうなあ。お疲れ様です。

 坐禅して大宇宙の真理と一体となって行動する、この燃え盛る炎のような日常生活を一生懸命に生きていくしかない、改めてそう思っております。