正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その七十六

 岩波文庫172ページ「しかあれば、転法にかならず聴法あるべしときこえず。又、「三世諸仏、為火焔説法」といはず、「三世諸仏、為三世諸仏、転大法輪」といはず、「火焔為火焔、転大法輪」といはざる宗旨あるべし。転法輪といひ、転大法輪といふ、その別あるか。転法輪は説法にあらず、説法かならずしも為他あらんや。」

 そういうことであるから、法を説くときには必ず法を聞くことがあるとは言っていない。また、過去・現在・未来の永遠の仏といわれる方々は炎のために説法すると言っていないし、過去・現在・未来の永遠の仏といわれる方々は過去・現在・未来の永遠の仏といわれる方々のために大宇宙の真理を説くとも言っていないし、炎は炎のために大宇宙の真理を説くとも言っていない。転法輪とも言うし、天大法輪とも言うが、それは別のものなのか。大宇宙の真理を説くという必ずしも自分とは別のもののためにするのでもない。自分とは別のもののためにするのでもない。

 私はここのところは、坐禅して大宇宙の真理と一体となってこの炎のように燃え盛っている日常を必死になって生きることがすべてだ、というように感じる。言おうと思えば色々なことが言えるが、結局のところは瞬間瞬間一生懸命に生きるしかない。この坐禅して一生懸命に生きることが大宇宙の真理を説くこと=転法輪なのだと思う。誰かのためにするのではない。自分自身が必死に生きることがすなわち大宇宙の真理を説く

ことなのだと思う。日常生活を一生懸命に生きることが大宇宙の真理を展開していることなのだ。だから日常生活が尊いのだと思う。

 オリンピックやコロナなど色々ある。政府の対応がどうの、IOCがどうの、色々言っている。もちろんこれらのこともきちんと分析・評価しなければいけない。しかし、究極的には一人一人が瞬間瞬間どのように生きるかにかかっていると思う。その積み重ねの上にしか社会、世界は成り立たない。上っ面の議論、理屈はもういい。政府も与党も野党もいい加減にしなさいよと思えてならない。独りよがりの幼稚さばかりが目に付く。

 坐禅して大宇宙の真理と一体となって行動しましょう。