正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その七十七

 岩波文庫173ページ「雪峰の「在火焔裏、転大法輪」、かならず委悉(いしつ)に参学すべし。玄沙の道(どう)に混乱することなかれ。雪峰の道を通ずるは、仏威儀を威儀するなり。火焔の三世諸仏を在裏せしむる、一無尽法界・二無尽法界の周遍のみにあらず。一微塵二微塵の通達のみにあらず。転大法輪を量として、大小広狹の量に擬することなかれ。転大法輪は、為自為他にあらず、為説為聴にあらず。」

 雪峰義存禅師の「在火焔裏、転大法輪」という言葉は必ず細かく丁寧に学ばねばならない。玄沙師備禅師の言葉と混同してごちゃごちゃにしてはいけない。雪峰義存禅師の言葉がどういうものかを理解するということは、坐禅して大宇宙の真理と一体となって行動している方=仏、の威儀のある姿を威儀のある姿であるとわかることである。炎のように燃え盛っている日常の中に過去・現在・未来の永遠の仏といわれる方々を有らしめるということは、一つの広大な宇宙、もう1つの広大な宇宙に行き渡っているというだけではない、また極めて小さなもののどれにも行き渡っているというだけでもない。大宇宙の真理を展開するということを、人間の頭の中で測れる「量」としてとらえて、大きいとか小さいとか広いとか狭いなどととらえてはいけない。大宇宙の真理を展開するということは、自分のためにするのではないし他のためにするのでもないし、説くためにするのでもないし、聞くためにするのでもない。

 私は転大法輪というのは、この炎のように燃え盛っている日常生活を坐禅して大宇宙の真理と一体となって行動していくことだと説いておられるのだと思っている。

 そのときは、これはすごいとか、これは小さいとか、自分のためになるとか、世間の役に立つとか、そんな「頭の中の考え」なぞ吹き飛んで存在しないのだ。

 そこに仏としての威儀が現れる。

 人間の価値は、この日常生活の瞬間瞬間にどのような行動をとるかで決まる。路上でたむろして酒を飲むという行動がどのようなことなのか、これを理屈で論じるのはくだらない。理屈でいくら「人間の価値」を言ってみたところでそれだけでは何にもならない。

 今の世の中、言葉、理屈に溢れている。しかし、言葉、理屈だけでは何も解決しない。

 坐禅して大宇宙の真理と一体となって行動しましょう。それしかない。