正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その七十九

 岩波文庫174ページ「玄沙もいまだいはず、転法輪はこのときなりと。転法輪なしといはず。しかあれども、想料すらくは、玄沙おろかに転法輪は説法輪ならんと会取せるか。もししかあらば、なほ雪峰の道にくらし。火焔の三世諸仏のために説法のとき、三世諸仏立地聴法すとはしれりといへども、火焔転法輪のところに、火焔立地聴法すとしらず。火焔転法輪のところに、火焔同転法輪すといはず。」

 玄沙師備禅師もまだ言っていない、大宇宙の真理を展開しているのはこの時だと。大宇宙の真理を展開することがないとは言っていない。けれども推し量ってみると、玄沙師備禅師は残念なことに大宇宙の真理を展開するということは説法することだと理解しているように思える。もしそうであるならば、雪峰義存禅師の言葉を理解できていない。炎が過去・現在・未来の永遠の仏といわれる方々のために法を説いている時、過去・現在・未来の永遠の仏といわれる方々が立ってそれを聞いているということは知っているけれども、炎が大宇宙の真理を説いている時、炎が立ってそれを聞いているとことを知っていない。炎が大宇宙の真理を説いているところに、炎は同じく大宇宙の真理を説いているとは言えていない。

 日常生活は炎のように燃え盛っている。その中で瞬間瞬間生きていく、行動していくそのことが、転大法輪=大宇宙の真理を展開しているということだ。そのとき、炎と自分の区分などない。炎のように燃え盛っている中で行動している時、そのような余裕はない。観念的・抽象的には区分できても、頭の中で考えるならば区分できるかもしれないが、現実を生きるということは観念論・抽象論では不可能。現実と一体となって、現実を体全体で受け止めて一生懸命に行動していくしかない。そしてその瞬間瞬間を大宇宙の真理に即して行動するためには坐禅するしかない。

 ここのところは、道元禅師が玄沙師備禅師が若干観念論的な理解をしているのではないかと批判されているように思う。上に書いたように生きるというのは観念論ではない。現実は炎のように激しく厳しい。うっかりすれば焼き尽くされてしまう。

 オリンピックは次から次へとごたごたが起こっている。オリンピック開催に関わった人たちは現実を甘く見過ぎと感じられる。こんな一大イベントがそう簡単にできる訳なかろうに。何とかなるさと思ってたのかな?なりませんよ。

 坐禅して大宇宙の真理と一体となって行動しましょう。