正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その八十

 岩波文庫174ページ「三世諸仏の聴法は、諸仏祖の法なり、他よりかうぶらしむるにあらず。火焔を法と認ずることなかれ、火焔を仏と認ずることなかれ、火焔を火焔と認ずることなかれ。まことに師資の道(どう)なほざりなるべからず。将謂赤鬚胡(しょういしちしゅう)のみならんや、さらにこれ胡鬚赤(うしゅしち)なり。」

 過去・現在・未来の永遠の仏といわれる方々が大宇宙の真理を聞くということは、仏といわれる方々のあり方であって、他から影響を受けてこうだと言われるようなものではない。炎を大宇宙のあり方ととらえてはいけない、炎を大宇宙の真理を体得した存在ととらえてはいけない、炎を観念的な言葉で炎ととらえてはいけない。ここで出てきている師匠と弟子(雪峰義存禅師が師、玄沙師備禅師が弟子)の言葉をいい加減に扱ってはいけない。まさに言えるのは、赤い髭であるから西域人であるというだけではなく、西域人の髭は赤いということでもあるのだ。

 現実の世界、この日常生活を送るのは自分自身なのであって、他の人間がどうであるとかは関係ない。日常生活を観念的にいじり回したって何にもならない。瞬間瞬間行動していくしかない。現実を色々な観点から瞬間的に直観的にとらえられなければいけない。一つの立場からだけで扱えるほど現実は単純ではない。

 オリンピックの開会式を巡って騒動が続いている。あまり興味はないのだけれど、ざっと見聞きした範囲で言うと、「なんでこんなことしたの?」ということに尽きる。非難されている当事者もそうだし、そういう人間を選んだ方もそうだし、政治家のパフォーマンスとしか思えない行動もそうだ。

 何回も書いてきたけれど、日常生活は炎のように燃え盛っている、瞬間瞬間の行動を誤れば炎に焼き尽くされる。このことが分かっていないのだろう。現実を、日常生活をしっかり把握できていないとしか思えない。

 また、こういう問題が起こると、一斉に非難が始まる。まあ、そういう世の中だから仕方ないけど、本当の問題は、なぜこのようなことが起きるのかということだろう。

 坐禅して大宇宙の真理と一体となっていれば、このような行動は取れない。これが真の抜本的な解決法だ。理屈や観念論でいくら批判・非難したって、じゃあどうするのかには到達できない。うっかり変なことするとバッシングを受けるからやらないようにしよう、知られないようにしよう、というレベルでは人類は進歩しない。バッシングされて社会から抹殺される恐怖から言動に気を付けるというのでは(当面は仕方ないかもしれないが)、本質的には何も解決しない。

 坐禅しましょう。