正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その八十一

 岩波文庫174、175ページ「玄沙の道かくのごとくなりといへども、参学の力量とすべきところあり。いはゆる経師論師の大乗小乗の局量の性相にかかはれず、仏々祖々正伝せる性相を参学すべし。いはゆる三世諸仏の聴法なり。これ大小乗の性相にあらざるところなり。」

 玄沙師備禅師に対しては不十分なところはあるけれども、仏教を学ぶ上で力になることが含まれている。このことはいわゆる経典を読んでいるだけとか議論ばかりしている人たちが大乗だとか小乗だとか狭い範囲の中で本質(性)とは何か、とか現れている姿(相)だとかいっていることととは関係なく、歴代の仏祖の方々が正しく伝えてこられた本質とその現れ方を学ばなければいけない。それは過去・現在・未来の永遠の仏といわれる方々が法を聞くということである。このことは大乗、小乗に分けて性とか相を論じることではないのである。

 よく大乗仏教小乗仏教とか言われている。大乗は人を広く救済するから小乗より優れているかのような話を聞いたりもする。

 しかし道元禅師は、仏教は釈尊が説かれたものしかないのだから大乗、小乗の別を付けることに対して否定されていると私は思っている。

 大乗だとか小乗だとか狭い範囲のことに絡めとられ、本質を見失ってはいけないということだと思う。坐禅して大宇宙の真理と一体となって行動する、炎のように燃え盛っている日常生活の瞬間瞬間を一生懸命に生きる。そのことを見失って、観念的・抽象的な頭の中の考えに振り回されてはいけない、そう思う。

 オリンピックにしてもコロナにしても、本当のところは「人間が生きる」こととどのような関係にあるのか、現実にある様々な事実をきちんととらえて、人間が生きることとの関係を論じるべきだと思うけれど、何だかなし崩しにオリンピックは始まるし、コロナの感染拡大は止まらないし、何なんでしょうね。

 「こういうことだからオリンピックをやることがよいのです」とか「感染は一定程度拡大するに決まっているので、ワクチン接種とかでこれくらいまでの水準にいつまでに抑え込みます」とか言わないから、すべてがなし崩し、何のためにやっているのか(非常事態宣言って何なんでしょうか?)さっぱりわからない。メディアもオリンピック開催に批判的だったように思うけど、連日取り上げている。節操がない気もするけど、商売ですからね、読んだり見てくれなかったらご飯食べられないから仕方ない。コロナに対しても「大変だ、大変だ」ばかり言っている。その方が商売になるのかな?

 反対でも賛成でもどちらでもいいけど、「人間が生きるとはどういうことか」に根差した議論じゃなきゃだめでしょう。その場その場の軽薄な表面的な意見はいらない。

 でもねえ、坐禅しなきゃ、そこのところは分からないですからね。今の世の中には暫くは無理でしょうね。

 坐禅しましょう。