正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その八十二

 岩波文庫175ページ「諸仏は機に逗(とう)ずる説法ありとのみしりて、諸仏聴法すといはず、諸仏修行すといはず、諸仏成仏すといはず。いま玄沙の道には、すでに三世諸仏立地聴法といふ、諸仏聴法する性相あり。かならずしも能説をすぐれたりとし、能聴是法者を劣(れつ)なりといふことなかれ。説者尊なれば、聴者も尊なり。」

 (経師・論師は)坐禅して大宇宙の真理と一体となって行動する仏といわれる方々は機会をとらえて説法をするということだけを知っていて、仏といわれる方々が説法を聞くとは言わないし、仏といわれる方々がさらに修行を続けていくと言わないし、仏といわれる方々がさらに自分を高めていくとは言わない。しかし、玄沙師備禅師の言葉には過去・現在・未来の永遠の仏といわれる方々が立って法を聞いていると言っている、仏といわれる方々が法を聞くという本質とその姿がある。必ずしも法を説くことが出来ることを優れているとし、法を聞くことができることを劣っていると言ってはいけない。説くことが尊いならば、聞くことも尊いのだ。

 今の世の中、ぎゃあぎゃあ自己主張をする人たちで溢れかえっている。この人たちが大宇宙の真理を体得しているはずはないと思う。

 真実を聞くことが出来なければ話にならない。聞くことが出来るからこそ話すことが出来る。聞くことと話すことは同次元のことなのだ。今は話すことだけが注目され、評価されているように感じる。きちんと聞けるというのは素晴らしいことなのに。

 たとえ大宇宙の真理を坐禅によって体得したとしても、さらに法を聞き、坐禅をし続けなければいけない。仏となってもずっと続けなければならない。修行は、坐禅は永遠に続く。「悟りました、はい終わり」などという軽薄、浅薄なものではない。毎日毎日、瞬間瞬間続けていくものなのだ。

 オリンピックで大騒ぎしているけど、それはそれでいいけれど、毎日毎日、瞬間瞬間をこつこつこつこつ続けていくことだけが人間の価値を決める。

 坐禅して大宇宙の真理、価値基準を体得しましょう。