正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その八十三

 岩波文庫175、176ページ「釈迦牟尼仏のいはく、若説此経(にゃくせつしきょう)、則為見我(そくいけんが)、為一人説(いいちにんせつ)、是則為難(ぜそくいなん)。

(若し此の経(きょう)を説かんは、則ち我を見ると為(な)す、一人の為に説くは、是れ則ち難(かた)しと為す。)しかあれば、能説法(のうせっぽう)は見釈迦牟尼仏(けんしゃかむにぶつ)なり、「則為見我(そくいけんが)」は釈迦牟尼なるがゆゑに。」

 釈尊が言われた。「もしこの経を説くということがあれば、それはすなわち釈尊を見ることである。一人のために説法するということは、これはなかなかできることではない。」そういうことであるから、説法ができるということは釈尊そのものになるということであり、それは「則為見我」=釈尊であるからである。

 私は、法を説くということは必ずしも現実に説法することに限らないと思っている。坐禅して日常生活を一生懸命に生きることも法を説くことだと思っている。そしてこのことは簡単なことではない。瞬間瞬間を必死に生きなければならないのだから。

 そして坐禅して毎日の日常生活その瞬間瞬間を必死に生きていくならば、それは釈尊そのものなのだ、そう思っている。則為見我は、このことを四文字で表したものと感じる。

 保育園児が送迎バスの中に取り残され熱中症で死亡したという。事実関係を把握しているわけではないが、自分の力では生きていけない幼児を預かる人間が、その日常生活を必死に生きていなかったことがこのような事故という結果を生んだと思う。この日突然園長がこのような行動をとったのではなかろう。日常生活の瞬間瞬間を疎かにしてきたその結果だと思う。「まあこの程度で何とかなる」というような態度だったのではなかろうか。手抜きすれば楽に金が手に入るし。しかし、そのようなことが通用することはない。因果の法則で必ずそれに見合った結果となる。

 日常生活の瞬間瞬間を一生懸命に生きるというのは理屈ではない。坐禅して大宇宙の真理と一体となって行動することなのだ。坐禅しない限り不可能なのだ。坐禅しましょう。