正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その八十四

 岩波文庫176ページ「又いはく、於我滅後(おがめつご)、聴受此経(ちょうじゅしきょう)、問其義趣(もんごぎしゅ)、是則為難(ぜそくいなん)。

(我が滅後に於て、此の経を聴受し、其の義趣を問ふは、是れ則ち難しと為す。)

しるべし、聴受者もおなじくこれ為難なり、勝劣あるにあらず。立地聴これ最尊なる諸仏なりといふとも、立地聴法あるべきなり、立地聴法これ三世諸仏なるがゆゑに。諸仏は果上なり、因中の聴法をいふにあらず、すでに三世諸仏とあるがゆゑに。しるべし、三世諸仏は火焔の法を立地聴法して諸仏なり。一道の化儀(けぎ)、たどるべきにあらず。」

 また釈尊が言われた。「自分の死後、この経を聞いたとして、その意味を問うことは、滅多にあることではない」

 知らなければいけない、法を聞く者も(法を説く者と)同じく滅多にあることではない、法を説くことと法を聞くこと、どちらが優れているということはない。地に立って法を聞く、これは最も尊い仏といわれる方々出るとしても地に立って法を聞くことが当然でありそうでなければいけない。何故ならば地に立って法を聞くことそのことが過去・現在・未来の永遠の仏といわれる方々そのものなのである。仏といわれる方々は大宇宙の真理を体得した方々であり、まだ大宇宙の真理を体得していない、体得する過程にある人たちが法を聞くことを言っているのではない。すでに過去・現在・未来の永遠の仏といわれる方々(三世諸仏)とされているのであるのだから。知らなければいけない、過去・現在・未来の永遠の仏といわれる方々は炎の説法を地に立って聞いているからこそ仏といわれるのである。仏道の教化の威儀を手探りで探し回る必要はない(立地聴法すればよい)。

 私は次のように思っている。人間は常に大宇宙の真理から離れないように生きゆとすれば坐禅し修行し続けなければならない。「こうなったから大丈夫」などということはない。そして周りの人に対して大宇宙の真理を伝えることもあるだろうし、周りの人から伝えられることもあるだろう。どちらも尊い重要なことであって、説いている方が優れているなんてことはない。

 今の世の中「自分は、自分は」と前に押し出してきて、言葉をまき散らす人が目立つ。そういう人が優れている人のように評価されている。

 しかし重要なことは日常生活の瞬間瞬間を大宇宙の真理と一体となって行動することであって、わーわー言葉を発することなど関係ない。必要な時には言葉を発してもいいが、普通の言葉で普通の調子で淡々と話せばいい。

 大宇宙の真理と一体となるということは普通の人になること。だから、目立つこともない、言動もごく普通のことになる。こういうことは今の世の中の人にはつまらなく感じるだろう。人とは違った、人目を引く言動、他人より優れていると誇示することが評価されているように感じる。しかし、そのようなことは、この大宇宙の前ではごくごくつまらない、浅薄なこと。

 坐禅して本来の姿に立ち返りましょう。