正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その八十五

 岩波文庫176ページ「たどらんとするに、箭鋒相拄(せんぶしょうしゅ)せり。火焔は決定(けつじょう)して三世諸仏のために説法す。赤心片々として鐵樹花開世界香(てつじゅせかいこう)(鐵樹、花開いて世界香(かん)ばし)なるなり。且道(しゃどう)すらくは、火焔の説法を立地聴しもてゆくに、畢竟(ひっきょう)じて現成箇什麼(げんじょうこしも)。いはゆるは智勝于師(ちしょうし)(智、師に勝る)なるべし、智等于師(ちとううし)(智、師に等し)なるべし。さらに師資の閫奥(こんおう)に参究して三世諸仏なるなり。」

 大宇宙の真理について辿っていこうとすれば、弓の名人二人が向かい合って矢を放ったところ矢がぶつかり合う(箭鋒相拄)ようなことになる。炎は過去・現在・未来の永遠の仏といわれる方々のために説法している、その説法のとき過去・現在・未来の永遠の仏といわれる方々は真心をもってこの瞬間瞬間を行動しておられ、そのことにより本来花が咲くはずのない鉄の木に花が咲き、その香りが世界に満ちるのである。別の言葉で言ってみるならば、炎の説法を地に立って聞くことにより、結局のところ何が現れるのだろうか。それは、いわゆる智慧が師匠に勝ることでもあろうし、師と等しいということもあろうし、さらに師匠も弟子も仏道の奥底を追及して過去・現在・未来の永遠の仏といわれる方々となるのである。

 冒頭のところは、理屈でああだこうだ言っても何も生まれない(弓矢がぶつかり合って落ちるだけ)ということだと思う。

 その後の部分は、この燃え盛るような日常生活の瞬間瞬間を必死に一生懸命に生きることにより、世界が素晴らしいものになっていく(鐵樹花開世界香)ということだと思っている。その毎日の積重ねにより向上し奥深いところに行けるのだと思う。

 毎日のこの瞬間をどう生きるかに人間の価値はかかっている。

 どこかの市長が金メダルを齧ったとかで騒動になっている。政治家に品性など求めても無駄だとは思うけど、このような行動を取るということは、普段からこの程度の低レベルの行動をしているから自然と出てしまったということだと思う。

 普段の日常生活がおかしいから当然の結果なのだと思う。結局人間は普段の行動の積重ね、普段の心がけ次第ということ。

 坐禅して大宇宙の真理と一体となって日常生活の瞬間瞬間を生きていきましょう。