正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その八十六

 岩波文庫177ページ「圜悟(えんご)いはくの猴白(こうはく)と将謂(しょうい)する、さらに猴黒(こうこく)をさへざる「互換(ごかん)の投機(とうき)」、それ神出鬼没なり。これは玄沙と同条出すれども、玄沙に同条入せざる一路もあるべしといへども、火焔の諸仏なるか、諸仏を火焔とせるか。黒白互換(こくびゃくごかん)のこころ、玄沙の神鬼に出没すといへども、雪峰の声色、いまだ黒白の際にのこらず。しかもかくのごとくなりといへども、玄沙に道是(どうし)あり、道不是(どうふし)あり。雪峰に道拈(どうねん)あり、道放(どうほう)あることをしるべし。」

猴白、猴黒は、二人とも大泥棒。泥棒の腕前がとても優れていたという。

 圓悟克勤禅師は雪峰義存禅師、玄沙師備禅師についてそれぞれ猴白、猴黒に例えどちらも優れているとしている。お互いがその立場から言葉を残しているが、その有り様はまさに神出鬼没、どうなるかわからないほどのものである。このことは玄沙師備禅師の主張に同調することもあるし、いやそうではないとすることも当然あるけれども、炎のように燃え盛っている日常生活(真実)が仏といわれる方々のことであるのか、仏といわれる方々そのものが炎のように燃え盛っている日常生活のことであるのか。猴白・猴黒どちらが優れているか(雪峰義存禅師の言葉と玄沙師備禅師の言葉とどちらが優れているか)ということに関して、玄沙師備禅師は神出・鬼没のように展開をされているが、雪峰義存禅師はどちらがどうこうというようなことには関わっていない(雪峰義存禅師はどちらが優れているかということを超越している)。そうではあるけれども、玄沙師備禅師の言葉には正しいところも正しくないところもあるし、雪峰義存禅師は取り上げて言っていることもあれば、言っていないこともある。

 ここは難しいと思っている。私なりには、ものごとは単純に「こうだ!」と言い切ることは難しい、この世界は色々な側面、色々な状況があり、単純にはいかない、しかし真実・真理はあるのだから一生懸命に瞬間瞬間を生きるしかないのだということなのではないか、と思っている。

 一つの断片を取り上げてあーだこーだ言うのは容易だ。しかし、断片は断片に過ぎない。現実に何がどうなっているのか、それを踏まえてどうするのか、そこが重要だ。

 コロナの感染拡大は事実なのだろう。そして感染者が増えれば収容できる病院・病床が不足するというのは当たり前の話だ。ワクチン未接種の人たちが動き回れば感染者が増えるのは当たり前だ。当たり前のことを深刻な顔して騒いでみても仕方ないのじゃなかろうか。

 結局のところ感染するリスクのある行動を控えるしかない。そして国民がそのように行動しないのは、政府が悪いからなのか?批判するのはいいけれど、現実に実現可能な提言は聞いた覚えがない。「実現可能な」ですよ。絵空事の観念論ではなく。そもそも政府というものが国民全般のためにどれほどのことが出来るのか?そのことはよくよく考えてみた方がいいのじゃないか。

 メディアも大変だ大変だと騒ぎつつ、一方でオリンピックではしゃいでいる。奇々怪々。ジキルとハイド。目の前の人が、このような態度を取っていたら、結構恐い。

 結局のところは、いつものとおりだが、坐禅して大宇宙の真理と一体となって行動するしかない。念のために付け加えておくけれど、そうしたからと言ってコロナに感染しないなんてことはない。感染者が増えてくればどこで感染するかはわからない。リスクはゼロになる訳がない。感染したら感染したで、一生懸命に対応するしかない。生死は自分ではコントロールできない。これも当たり前の話。