正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 一顆明珠その一

 岩波文庫180ページ「裟婆世界大宋国(しゃばせかいだいそうこく)、福州玄沙山院宗一大師(ふくしゅうげんしゃさんいんそういだいし)、法諱師備(ほういしび)、俗姓者謝(ぞくしょうはしゃ)なり。在家のそのかみ釣魚(ちょうぎょ)を愛し、舟を南台江(なんだいこう)にうかべて、もろもろのつり人にならひけり。不釣自上(ふちょうじじょう)の金鱗(きんりん)を不待(ふたい)にもありけん。唐の咸通(かんつう)のはじめ、たちまちに出塵(しゅつじん)をねがふ。舟をすてて山にいる。そのとし三十歳になりけり。浮世のあやうきをさとり、仏道の高貴をしりぬ。つひに雪峰山にのぼりて、真覚大師に参じて、昼夜に辨道(べんどう)す。」

 この世界の中の偉大な宋の国におられた福州玄沙山院宗一大師、いみなは師備と言い、出家する前の名は謝と言った(玄沙師備禅師)。在家の頃漁師で、船を南台江に浮かべほかの漁師たちと同じように魚を釣っていた。その様子は釣り上げなくとも自然と上がってくるのを待っていないのかと思われるようなゆったりとしたものだった。ところが咸通という年代の初めに出家を願った。船を捨てて山に入った。年齢は30歳だった。俗世界はどうなるか分からない不安定なものだと思い、仏道が優れていることを知った。最後に雪峰山に登って雪峰義存禅師の弟子となって昼夜坐禅をしていた。

 一顆明珠の冒頭。「尽十方世界一顆明珠」という言葉を残されたのが玄沙師備禅師なので、まず玄沙師備禅師のエピソードが紹介されている。

 「不釣自上の金鱗を不待にもありけん」「金鱗」は岩波文庫の水野氏の脚注では「真実」とされている。真実=大宇宙の真理は自分の外側にあって追い求める(釣り上げる)ものではない。人間は大宇宙の一部であって、本来は大宇宙の真理そのものなのだ。だけれども頭の中の考え、利得だとか諸々のものに惑わされ大宇宙の真理を見失っている。自分自身を見失っている。

 だから、坐禅により身心をバランスさせ、本来の姿(本来の面目)に立ち返る必要がある。坐禅した瞬間にそうなる。

 アフガニスタンタリバンを巡って混乱が続いているようだ。頭の中の考えに憑りつかれると残酷なことを平然とやってしまう。むしろそれが正義であって、快感・満足感すら覚えるのだろう。どんな思想だろうと、宗教だろうと、殺人をしてでも自分たちの考えを強制しようとするのは、間違いだ。大宇宙の真理に反する。しかし憑りつかれているから「自分たちは正しい」としか思わない。正気に戻ってほしいが、坐禅はしないだろうなあ。

 タリバンに武器や食料などを供給している勢力もあるんだろう。その勢力も自分の考えに憑りつかれている。反対もまた然り。

 地球上いろいろな考えに憑りつかれた者たちがいがみ合い、戦っている。人類はいつまでこんなことを続けていくのだろう。

 坐禅するしかないのだけれど、しないだろうなあ。大丈夫ですかね、このままで。