正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 一顆明珠その三

 岩波文庫181ページ「雪峰さらにとふ、備頭陀なんぞ徧参(へんざん)せざる。師いはく、達磨不来東土、二祖不往西天(だるまとうどふらい、にそふおうさいてん。達磨東土に来らず、二祖西天に往かず)といふに、雪峰ことにほめき。」

 雪峰義存禅師はさらにたずねた。「お前さんは何故方々の師を訪ねて真実を知ろうとしないのか。」玄沙師備禅師は答えた。「達磨大師は中国に来られなかったし、二祖(太祖慧可禅師)はインドには行かれなかった。」と。雪峰義存禅師はこの返答を聞いて非常に良いとほめた。

 達磨大師はインドから中国に来られた。これは事実。二祖(達磨大師から法を嗣いだ)太祖慧可禅師は中国にとどまりインドには行っていない。

 それなのに何故達磨大師は中国に来なかったなどと事実と違うことを玄沙師備禅師はおっしゃたのか。

 私の思うに、達磨大師も太祖慧可禅師も大宇宙の真理に従い瞬間瞬間を一生懸命に生きてきた結果、達磨大師は中国に来られ太祖慧可禅師は中国にずっとおられたということなのだと思う。「自分は!自分は!」と自我というか妄想に憑りつかれて行動したのではなく、坐禅して大宇宙の真理と一体となって行動されたのだと思う。それを玄沙師備禅師はおっしゃっていると思う。

 大宇宙の真理に従って、その瞬間瞬間最適な行動を取る。これが重要だと思う。

 しかしこれは非常に難しい。坐禅していない限り不可能だと信じている。

 池袋で自動車を暴走させ自転車の母子を轢き殺した老人に対し禁錮5年の判決が下されたという。

 この老人は自分には問題ないと思っていただろう。今もおそらくそう思っているだろう。「老い」という問題はあるかもしれないが、本質的には自分自身と周囲の状況が分からなくなっているということが根本にあるのではないかと思う。

 政治家や報道機関は典型的だが、世界を見渡してみても、頭の中の考え=妄想に憑りつかれ自分を見失い、周囲の状況が見えなくなっている人間が溢れているように思う。事実が見えなくなっている人間がたくさんいる。

 この被告の老人は老いによって妄想の程度が強くはなっていると思うが、元々妄想に憑りつかれてたんじゃないかなと感じる。「上級国民」と言う言葉は私には何のことやらわからないし、理解しようとも思わないが、おそらく被告の老人は自分のキャリアに憑りつかれているのだとは感じる。過去どんな地位にあろうが、実績があろうが、今この瞬間に何をしているかが全て。それが人間の価値を決める。キャリアや地位も妄想に過ぎない。そんなものに憑りつかれてどうするのか。

 しかし世の中自ら進んで、喜んで憑りつかれるために努力している人間がたくさんいる。

 正気に戻らないといけない。そのためには坐禅するしかない。