正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 一顆明珠その四

 岩波文庫181、182ページ「ひごろはつりする人にてあれば、もろもろの経書(きょうしょ)、ゆめにもかつていまだ見ざりけれども、こころざしのあさからぬをさきとすれば、かたへにこゆる志気(しいき)あらはれけり。雪峰も、衆(しゅ)のなかにすぐれたりとおもひて、門下(もんか)の角立(かくりう)なりとほめき。ころもはぬのをもちゐ、ひとつをかへざりければ、もゝつゞりにつゞれけり。はだへには紙衣(しえ)をもちゐけり、艾草(がいそう)をもきけり。雪峰に参ずるほかは、自余(じよ)の知識をとぶらはざりけり。しかあれども、まさに師の法を嗣するちから、辨取(はんしゅ)せりき。」

 玄沙師備禅師はもともと毎日釣りをして暮らしていた人であるから、諸々の経典などは夢にも見たことはなかったけれども、真実・真理を知りたいという志がまずもって浅からぬ(深い)ものであったので同輩たちの中で抜きんでる真実・真理を知りたいという気持ちが現れていた。雪峰義存禅師も弟子たちの中で優れた人間だと思い、弟子たちの中で頭角を現している者だと褒めていた。玄沙師備禅師は布の衣服を着ていた(絹織物のような高価なものではなく)。一着の着物を着続けていて破れたら布を継ぎはぎしていたので継ぎはぎだらけであった。下着には紙でできた衣を使っていて、よもぎも着ることもあった(紙もよもぎも保温力があるという)。雪峰義存禅師の下にいてほかの師匠方を訪ねることはしなかった。しかしながら、玄沙師備禅師の法を嗣ぐ力量を学んで体得した。

 まず何よりも真実・真理を知りたい、体得したいという意思が無ければ話にならない。何も始まらない。発心(ほっしん)していなければ、仏教を学ぶことはできない。経典を読むことが大事なのではない。発心することがなければならない。別な言い方をすれば真実・真理を知りたいという意思があれば経典は関係ないということだろう。

 今の世の中、知識偏重だからこういうことは理解されにくいと思うけど、知識がいくらあったって仏教は体得できない。知識量がいくら多くても馬鹿な人間はいくらもいる。知識に振り回されて真実・真理からどんどん離れていってしまう人間が多いように感じる。

 真実・真理を体得することが目的だから、衣類などには無頓着。それはそうだろうと思う。

 今の僧侶ってたいていは世襲なんじゃないだろうか。きんきらきんの法衣なんか着ちゃってる。発心はあるんだろうか。

 真実・真理を追い求め、真実・真理を現実の世界で実践していく。そういう壮大なことが人間が真に生きるということだと思う。それは、坐禅すれば可能だ。

 首相が退陣するという。何だか騒いでいるけれども、どうしてもちまちました騒ぎに見えて仕方がない。与党も野党も大宇宙の真理に根差した壮大な主張、そしてそれを現実に実践していく道筋をうきっちりと示していないと思えて仕方がない。

 頭の中の妄想に憑りつかれた人たちがわちゃわちゃ騒いでいる。報道機関も妄想に憑りつかれわーわー騒いでいる。やれやれ。

 私は坐禅して大宇宙の真理と一体となって日常生活の瞬間瞬間を一生懸命生きていきます。