正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 一顆明珠その五

 岩波文庫182、183ページ「つひにみちをえてのち、人にしめすにいはく、「尽十方世界、是一顆明珠(じんじっぽうせかい、ぜいっかめいしゅ)。

 ときに僧問(とう)、承和尚有言、尽十方世界是一顆明珠。学人如何会得(承るに和尚言へること有り、尽十方世界は是れ一顆の明珠と。学人如何(いかん)が会得(ういて)せん)。 師曰(いわく)、「尽十方世界是一顆明珠、用会作麼(尽十方世界は是れ一顆の明珠、会(え)を用ゐて作麼(そも)。」」

 玄沙師備禅師は大宇宙の真理を体得されたのち、人々に示しておっしゃった「この世界全体は一つの輝く真珠のような素晴らしいものだ」

 あるとき一人の僧が質問した。「和尚さんは尽十方世界是一顆明珠とおっしゃいましたが、これをどのように学んで理解すればよいのでしょうか」

 玄沙師備禅師がお答えになった。「尽十方世界是一顆明珠である。理解するなどということをしてどうするのか」

 坐禅することにより頭の中の考えに囚われることが無くなり、心身がバランスしたとき、大宇宙と言うのはバランスのとれた素晴らしいものだと感じる。

 本来大宇宙は大宇宙の真理によりバランスしたものであるのに、人間は自らの思惑、欲望、頭の中の考え(妄想)に囚われ、本来の大宇宙の姿を見失ってしまう。

 このバランスの取れた、輝く真珠のような素晴らしい大宇宙というものは、頭で考えて理屈で理解するものではない。坐禅して体感、体得するものなのだ。だから僧の問いに対し玄沙師備禅師は「用会作麼」理解してどうしようというのかとお答えになっているのだ。

 人間は、特に今の人間は、頭で理解する、頭で考えることに偏っている。思考する、理解することが重要であるのは当たり前だが、そもそも人間が生きるとは何かという根源、この大宇宙の中に存在していることとはどういうことかという根源的なことは、頭で理解できるものではない。坐禅して体得するしかない。

 道元禅師はそのことを伝えるために正法眼蔵をお書きになったと私は思っている。

 まあしかし、ビートたけしさんをつるはしで襲うような奴がいる世界が素晴らしいのか?と言う風に思う人もいるだろうね。変な奴一杯いるからね。つるはしもって襲いに行くなんて大変な労力だけど、妄想に憑りつかれてるから全然平気なんだろうね。頭で考えることばかりに偏重すると、簡単に妄想に憑りつかれ、狂暴、残酷なことを平気でやってしまう。

 しかし、バランスの取れた素晴らしい大宇宙、大宇宙の真理は目の前にある。いや、本来人間も大宇宙の一部でありバランスの取れた素晴らしいものなのだ。その本来の姿を見失ってしまっているのだ。本来の姿に戻りましょう。そのためには坐禅するしかない。