正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 一顆明珠その六

 岩波文庫183ページ「師、来日却問其僧(師、来日却つて其の僧に問ふ)、「尽十方世界是一顆明珠、汝作麼生会(尽十方世界は是れ一顆の明珠、汝(なんじ)作麼生(そもさん)か会せる)」。

僧曰、「尽十方世界是一顆明珠、用会作麼(ようういそも)(尽十方世界は是れ一顆の明珠、会を用ゐて作麼(そも))。」

師曰く、「知、汝向黒山鬼窟裏作活計(知りぬ、汝黒山鬼窟裏に向(むか)つて、活計(かっけ)を作(な)すことを)。」」

 玄沙師備禅師は翌日その僧に質問した。「「尽十方世界是一顆明珠」である。お前さんはどのように理解しているか」

 僧は答えた「尽十方世界是一顆明珠、用会作麼」(昨日の玄沙師備禅師の言葉。理解してどうしようとするのか。)

 玄沙師備禅師は言った「わかった。お前さんは黒山(須弥山の中腹にあって日月の光の射さないところ(岩波文庫脚注))鬼のすみかで生きることが出来る、力量を発揮できる。」 

 僧は「尽十方世界是一顆明珠、用会作麼」と先日の玄沙師備禅師の言葉を繰り返している。これをただ言葉をまねしただけで本質は分かっていないと解釈することもできるように思うが、この後の道元禅師の解説を読むと玄沙師備禅師は僧を評価していると解釈してよいかと思う。

 師の言葉をそっくりそのまま返すというのは自分で納得できていないとできないだろうと思う。

 「汝向黒山鬼窟裏作活計」人間が生きていれば快適、心地よい時ばかりではない。地を這いずりまわるような苦しみの中にいることもある。むしろ苦しみの中にいることの方が多いだろう。

 仏教を信仰すればいつでも幸せに快適に過ごせるなんてことはない。私はそう思っている。

 ただどんな状況においても、苦しみの中でも、大宇宙の真理に従って瞬間瞬間を一生懸命に生きることはできるようになる。そう信じている。

 いつどんな状況になるかはわからない。もちろん坐禅していれば自ら大宇宙の真理に反することはできなくなるが、社会全体の動きは個人ではいかんともしがたい。自然現象は防ぎようがない。

 しかし、どのような時でも、それが光の射すことがない鬼の棲み処であったとしても人間は生きなければいけない、いや生きることが出来る。大宇宙と一体となっていればそれは可能だ。

 今現在のこの瞬間を「嫌だ嫌だ!」と逃げ回ろうとしてもそれは不可能だ。不可能なのに逃げよう、避けようとすれば苦しみは増すばかりだ。

 今この時を、この瞬間を一生懸命に生きなくて、明るい未来がある訳がない。そんな妄想は捨てましょう。

 坐禅して大宇宙の真理と一体となって行動する。いつでもどこでもそうするしかない。